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名古屋

連休の渋滞

5月に入ってからはまったく論文の執筆が進んでいない。4月の末に、ついつい調子のいいようなことを書いてしまった。その報いであろう。

この間、論文以外の諸事に、時間と気持ちが費やされていた。なによりまいったのが、帰省の往復の渋滞だった。

ぼくも《あ》も名古屋に実家があり、家庭の事情もあるため、なんだかんだといって、帰省する。今回は子どもたちも一緒に、ディフェンダーで出かけた。しかし連休中とて、どこも大渋滞。「自粛」などどこへ吹き飛んでしまったかという勢いであった。

往路は中央道50kmの渋滞だという。高井戸から相模湖までずっとつながっていて、通過に4時間以上。絶望的である。

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正文館書店

東片端にある正文館書店。名古屋に帰省すると必ず立ち寄る。

似た名前のちくさ正文館もいい書店だが、ぼくがよく行くのは東片端にある正文館のほうだ。一時間から二時間ほど滞在してゆっくり棚をみてまわり、気に入った本をひとかかえ買って、古いお屋敷が残る街を歩いて帰る。高校や予備校時代よりも、むしろ大人になってから、とくに子どもが生まれてからのほうがお世話になっている感がある。

ぼくにとって正文館は、たぶん、あらゆる新刊書店のなかでいちばん好きな書店のひとつだ。

もっと個性的な品揃えをしている書店は、東京はいうにおよばず、名古屋にだって存在している。インテリ好みの書店なら神保町へ行けばいい。正文館は、そうした意味でこれといった「個性」があるというタイプの書店ではない。品揃えもまあ普通だし、売り場面積も広くはない。でもぼくがこの書店を好ましいとおもうのは、いまはもうほとんど感得することのできないある気分がいまだ息づいているかに感じられるからである。

そのことは、たとえば文庫の棚が管理のしやすい版元別ではなく、著者別にならべられていたり、ひじょうに充実した児童書コーナーにみてとれるが、それらが直接好ましさの要因であるというわけではない。具体的にどこかどうというより、やはりこの店全体を浸している雰囲気みたいなものが重要なのだ。

とはいえ今回行ってみたら、以前は2階の大半を占めていた人文書のコーナーが大幅に縮小されて奥に押し込められ、手前の大部分は旅行ガイドブックと学参がならべられていた。昨今の出版市場の動向からして、どこの書店も経営的には楽ではないだろうから、残念だけれど、仕方ないことなのかもしれない。

それでも全体としてみれば、店の雰囲気は損なわれていなかった。名古屋へ行くたびにこの書店に寄るというささやかな愉しみを今回も味わうことができ、うれしかった。


車窓都市

名古屋芸術大学で特別講義をしてきた。『アトラクションの日常』を読んでくださったという津田佳紀先生からお誘いいただいたのだ。とてもありがたいことである。

名古屋駅から名鉄にゆられて15分ばかり。その大学のあるあたりは、かつて西春町とよばれていた。それがいまでは駅名に痕跡を残すのみで、「北名古屋市」と称しているという。その名前についてよそ者が忖度することはつつしみたいが、そうした改名が、近隣の大都市の知名度に寄生することばかりに目がいった結果、いっさいの歴史的文脈というものを消去してしまっているくらいのことは、誰にだって想像がつく。そしてそんな地名がいまや日本じゅうにあふれている。歴史性をはぎとられて、時間の流れない世界という点では、郊外、もしくはテーマパークみたいなものだ。娘に源氏名みたいな名前をつけてしまうようなタイプの欲望とも近い。

『アトラクションの日常』のなかでは、名古屋という都市のあり方が重要な役まわりをはたしている。ぼくにとって名古屋という街は、そこから離れるべきものであると同時に、否応なくその文化に根ざしていることを意識せざるをえないものでもある。その名古屋の都市的様態を、同書のなかで、バザール都市としての東京と対比しながら「スーパーマーケット都市」と書いているが、これは車窓都市といいかえてもよい。名古屋は──少なくとも戦後のある時期以降の名古屋は──全域が「郊外」として編成された大都市であり、「郊外」という空間は、どう考えたって車窓的なのだ。

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節分

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「きょうは節分だよ」と子どもたちが口々にいう。

かれらの関心は節分そのものにあるのではない。恵方巻である。あの海苔巻きを1本まるかぶりで食べたいのだ。じっさい学童では一昨日に早くもおやつで恵方巻をいただいているらしい。あわよくばもう一本ねらっているのである。

しかし帰宅した《あ》はあっさりと却下した。ああいう習慣はうちにはないから、というのが理由。東日本方面のみなさんには区別がつかないかもしれないが、恵方巻は名古屋とはなんの関係もない。あれは関西方面の習慣であり、名古屋と関西とでは文化圏としては断絶している。ぼくが初めて知ったのは高校時代に読んだ小林信彦『唐獅子源氏物語』だった。

子どもたちは「そりゃないよ」と小声でぶつぶつ文句をたれる。その声は《あ》の耳を情け容赦なく素通りして消えてゆく。恵方巻の代わりに《あ》が子どもたちに差しだしたのは、空のプリンカップだった。なかに豆が何粒かずつ入っている。

デッキにでようと窓をあけた《なな》が叫んだ。「うわあ、小さな雪がまた降ってる」。粉雪というか、砕けた氷片のような、ざらめ状の雪である。早くも大方消えかかった一昨日の積雪のうえに、またしんしんと雪が降り積もっている。

暗くなった庭に舞う雪めがけて、子どもたちは豆を撒いた。「おにわあ、そと! ふくわあ、うち!」という声が響く。宙に浮かんだ声はたちまち寒さに凍えた。


給水塔

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たまに散歩にでかける先に、栗山配水塔がある。土木遺産で1937年の建築だというから、年齢は父とさほど違わない。ただしこちらはまだ現役。いまも一帯に上水道を供給しているのだという。江戸川あたりからだと、北総台地の西端の斜面林の上から、この配水塔のドームがちょこんと頭をのぞかせているのが見える。電車で帰ってくるときに目にするこの光景が、ぼくは好きだ。

名古屋にいた子ども時代には近所に東山給水塔があり、どこからでもよく見えた。こちらはドーム型ではなく、ムーミンのおうちみたいなとんがり屋根をいただく円柱形だった。先年母が入院したとき、病院の4階の窓の向こうにその姿を見つけた(そこは、ぼくが生まれた病院でもある)。東山給水塔もまた別段以前と変わらぬ姿でそこに建ちつづけていたようだ。

なんだかぼくの人生の風景には、いつもちょっと遠くに給水塔がたたずんでいるみたいである。


10+1

建築系のウェブマガジン「10+1 web site」に寄稿しました。「ニュータウン世代の新言語」という特集の一篇。「郊外」だけからできている都市ということで、ぼくが生まれ育った名古屋という街の話です。
http://tenplusone.inax.co.jp/monthly/2009/08/issue1.php


世界コスプレサミットその2

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世界コスプレサミット・チャンピオンシップ当日。イントレには各国からの取材陣が鈴なりである。

優勝は日本チーム。個人的にはタイ、スペイン、フランスのパフォーマンスがよかった。ナマ永井豪先生と、水木一郎さんのうたうマジンガーZとバビル二世にしびれました。

今回はぼくの卒論ゼミ生2人につれられて来た。全体をとおして見させてもらい、また終了後に各国コスプレイヤーからうかがった話から、コスプレが作品にたいする愛の表現であることをつくづく教えられた。そういうことなのだね。

そしてそれとはまた別次元において、そこに生き残りをかける地方テレビ局やらクールジャパンを演出したい外務省やら若者の支持をとりつけたい政治家やらの「大人」の思惑がからみ、「日本が世界に誇る文化」などとむやみやたらにぶちあげたりして、話をよりいっそうややこしくしている。たぶんそれは、テクノナショナリズム(吉見俊哉)ならぬ、「コンテンツ・ナショナリズム」とでもよぶべき力学であるだろう。


世界コスプレサミット

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昨日から名古屋にいる。放送大学で制作中の番組の取材で、世界コスプレサミットを見にきたのだ。

初日はひたすら雨。とくに午前中の錦通りのパレードは、オープニングでマクロスの音楽がかかると同時に雨風がひどくなり、ずぶ濡れになりながら撮影した。上の写真は午後のパレードである。大須商店街のアーケードがあるところで実施したので、雨はまだ多少しのげたものの、えらい人出だ。

脚立にまたがった大手マスコミ(とくに新聞社と通信社ですね、このばあい)の腕章をつけたひとたちが、「一般(人)はどけ! さがれ!」とどなりたてながら写真を撮っていた。


映画『K-20 怪人二十面相・伝』

『K-20 怪人二十面相・伝』(佐藤嗣麻子監督)を観た。大作であるわりに危惧されたほど大味にすぎず、それなりに愉しく観られる。

北村想の原作は未読(名古屋出身者にあるまじきことで恐縮だが)。だから、原作と映画脚本とでどう設定が変わっているかはわからない。だがいずれにせよ、第二次世界大戦を経験しなかったパラレルワールドの東京としての「帝都」、という舞台設定が、たいへん効いている。そして製作者側のシンパシーの向かう先も、この「帝都」という架空の都市にある。

1棟だけ屹立する超高層ビルと、黒く塗られた東京タワーをいただく「帝都」。それは、ゴッサムシティを彷彿とさせる。そのビルの谷間を、怪人二十面相はバットマンみたいに黒づくめの衣装にマントをはためかせ、飛ぶ。

プロットや物語は類型で固められている。それ自体は悪いことではないが、類型を越えるものは感得しにくい。終盤に進むにつれ、少々辻褄があわなくなる。が、それもまあ、よい。ただ、やっぱりちょっと長すぎる。黒い東京タワーが活かされるような物語だと、なおよかっただろう。クラリス然とした松たか子や、仲村トオルのスカしぶり、高島礼子の姉御ぶりなども愉しめる。

細部に凝るのは、いかにも山崎貴監督の仲間らしい。作品の傾向も共有しており、基本的に人間を人間として扱うのが苦手のようだ。活劇部分はそれなりにみせてくれるが、ドラマとなると脚本も演出もガチガチである。

極端に二極化した格差社会という設定だ。物語は(定型どおり)心情的に貧困階層の側に共感をもちうるように組み立てられている。ところが、そうした市井のひとびとを描く手つきが、なんともぎこちない。それはもう、びっくりするくらいだ。

その結果、義賊としての二十面相という側面が浮かびあがってこず、なんだかよくわからない、ただやみくもに叫び駆けまわる「怪しい人」として映ることになる。(そういえば、もうひとり別の「怪人」も登場する。)

貧困。とことん搾取されるということ。どこまでも支配されるという立場。それらにたいする悲しいまでの想像力の欠如が、この作品の源泉である。良くも悪くも。

本年の更新はこれでおしまいです。一年間お付きあいくださって、どうもありがとうございました。どうぞよいお年をお迎えください。来年がみなさんにとって穏やかで実り多い一年となりますように。


映画3本

もろもろあって、なかなか映画館に行けない日が続いていた。むろん古い作品ならDVDやビデオでいつでも観ることはできる。最新作も半年待てばいい。だがやっぱり、できることなら、小さくてもいいので映画館で観たい。映画館に行けないような人生は、ぼくの人生ではない。無理やりでも、もっと映画館に足を向けるのだ。

──てなわけで、さほどよく観ているわけではないのだが、最近観たなかから印象に残ったもの3本を簡単に。作品の概要やらストーリーやらは公式サイトなどでご確認を。なお、いうまでもなく、この3本は相互になんの関係もなし。

(1)『かつて、ノルマンディーで』

フランス人著名ドキュメンタリスト、ニコラ・フィリベールの新作(2007年)。かつて自身が助監督として参加した作品では、撮影地ノルマンディーの農家のひとびとが「俳優」として出演した。30年たってその「俳優」たちを再訪し、かれらの当時の経験と、その後の人生とをふりかえる。

「俳優」たちがカメラに向かって語る。海からの風にテーブルクロスがめくれあがる。髪がバサバサとみだれ、背後の空にどんよりした雲が表情を少しずつ変えていったりする。そうしたさまを、画面の端でとらえてゆく。

全体として、私小説に似ている。フィリベールははっきりとひとりの「作者」としてこの作品全体を統べている。作品は、強力ではないかもしれないが、明確にドラマツルギーに貫かれている。観客は、監督をしてこの作品を撮ることを決断させた動機、あるいはこの作品を撮ることによって監督が知ることになった「事後的な」動機を最終的に知らされることになる。

その「動機」は、しかし正直いって、やや失望を禁じえないような凡庸な──無意味だというのではない──ものなのだが、むしろそうした単一の意味に回収されるのを作品自身が拒むかのように、映像は静かにして雄弁である。そのあたりがドキュメンタリーのおもしろさかもしれない。ぼくは最近、海外のドキュメンタリー映画にはまりつつある。

この作品は、フィリベール特集という企画の一環として公開されたようだが、たいへんよい企画である。5月末から京都で上映だとのこと。

なお、本作品で参照軸となる30年前のルネ・アリオ監督の映画は、フーコーの『ピエール・リヴィエールの犯罪』を原作にした作品なのだそうだ(ぼくは未見)。本作品の冒頭で、河出から出ている邦訳書の装幀がちらりと映る。

(2)『うた魂(たま)』

柳の下のドジョウも何匹目かという作品である。ジャズやフラのあとだから、こんどは合唱、というしだいだ。一言でいえば、「貧相」。その貧しさは、90年代以降テレビ局など大手マスコミと代理店主導でつくられるようになってきた日本映画が共有する貧しさである(本作品の製作は、日活・文化放送・朝日新聞)。観客はそれなりに入っていた。それがまた貧しい。

設定も人物造型もプロットも台詞も選曲も、みな教科書どおり見事に類型的で、まったくといっていいほど展開がない。薬師丸さんも残念だが中途半端だった。あんな古典的な不良、いまでも棲息しているのかなあ。北海道の函館付近が設定上の舞台だが、画面に映る風景は、どう見ても北海道のそれでないことが多い(たとえば校舎屋上、主人公の自宅周辺など)。頼みは、うたうことの力だけ。貧しい。

そんなわけで、いかにも今日的な貧しい作品なのだが、貧しいなりに、ぼくは嫌いではない。主人公の自己チューぶりを演じる夏帆もよかった。

(3)『相棒』

これもテレビ局映画。貧しいのに変わりはない。ただ、それなりに映画にはなっており、佳作とよんでよい。

「映画になっている」のは、何もテレビドラマ版にくらべて大がかりで派手なシーンが入っているから、という意味ではない。脚本がまずまずよく練られているからだ。別言すると、しつこい。この種の作劇上のしつこさは物語で見せる映画には必須である。にもかかわらず、70年代以降の日本映画でこれにお目にかかるのは、じつに稀。テレビドラマ派生の刑事物映画はあまたあるが、そのなかで本作品が(めずらしくも)成功しているのだとすれば、その最大の要因は脚本にある。ただ、物語上の論理の焦点が終盤にかけて少しずつズレてゆき、安手のカタルシスに落ちそうになるのは惜しい。

物語の軸に据えられるのは、テロ集団による在外日本人拉致事件だ。2004年にイラクでおきた事件、およびそれにたいする日本のマスコミ・ネットでのバッシングのことを誰しも連想するだろう。もしかすると、これってテレ朝と小学館による(無意識の)贖罪ということなのかもしれない。なんにせよ、フジではありえないことではある。

ぽっかり空いた時間に観た。いかにも定年退職しましたという感じのシニア夫婦の観客が多かった。音声がときどき乱れたのが残念。パンフレットの仕掛けも中高年の客層を視野に入れたものか。

そういえば、和泉聖治の映画で最初に観たのは、『オン・ザ・ロード』だった。いまはどうか知らないが、当時は名古屋ではたいてい2本だて。併映は、たしか大林宣彦の『転校生』だったような気がする。


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