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書物
清水幾太郎「テレビジョン時代」
- May 20, 2010 08:45
- メディア論的に考える | 考えたこと
いま3年生の講読の授業で清水幾太郎「テレビジョン時代」を読んでいる。初出は1957年。『思想』11月号の特集「マス・メディアとしてのテレビジョン」の巻頭論文として発表された。
一般にこの論文は、テレビ黎明期において当時の最新メディアであったテレビの可能性について論じた先駆的論文と位置づけられている。ぼくもそのように教わったし、そう教えてくださったひとりである吉見俊哉先生も、2003年の『思想』12月号に再録するにあたって、そのような位置づけの解題を書いている。
発想の中心にあるのは、テレビジョン技術が実現する、イメージの直接的な現前性である。発想としては一種の技術中心主義であり、テレビ以後の展開を知っている今日の目からみれば古くさいと感じられるところも少なくない。それでも、いまなお、やはりひじょうに重要な論文のひとつであることはまちがいない。ぼくはこの論文を何度も読んだ。
しかし、読めば読むほど、ここで中心に論じられているのは、テレビジョンではないようにおもわれてならない。清水さんのまなざしは、テレビを経由したうえで、書物へ向かっている。テレビの圧倒的に直接的な現前性のリアリティのまえに、わざわざ読書などという七面倒な努力を要請する書物がいかにも「無精」で「骨の折れる」メディアだと感じられるようになってゆく。
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なぜ書くのか
たったいま原稿を一本しあげたところだ。ちょっと特殊な性質の雑誌から依頼されたもの。一般の書店店頭に陳列される類のものではない。とりたてて長くはないこの原稿、おもいのほか執筆が難航した。授業期間が終わってもまとまって時間がとれず忙しかったという事情はたしかにあった。でも本質的な理由は、そういうことではない。
依頼されたテーマは、口幅ったい言い方になるが、たしかにぼくにしか書けないであろう題材だった。ぼく自身、そのテーマについて言うべきことは山ほどあり、長年内側にかかえてきた。けれどもこれまで書くことを避けてきたし、書くつもりもなかった。今回の依頼がなければ、おそらくこの先ずっと書くことはなかっただろう。
依頼していただけるというのはありがたいことだ。いつもならよろこんでお引きうけする。だが今回はテーマを聞いて少しとまどった。でも、けっきょく引きうけることにした。ほかのひとにいい加減なことを書かれるのも困るといういささか消極的な理由がなかったかといえば、嘘になる。
長年あれこれ考えてきたことだから、書ける。断片的なことはいくらでも書ける。だが、書けども書けども原稿が立ちあがってこない。一向に組立工程に入ることができず、部品ばかりが山積みになっていく困った工場みたいな惨状である。
直接的な原因ははっきりしている。書き出しが見つからないからだ。これはぼくの執筆上の癖なのだ。どんなに部品を書き連ねても、じぶんなりに「これだ」とおもえる書き出しが見つからないかぎり、まとまったものにならない。べつに傍目にもすばらしい名文である必要はない。じぶんなりにこの原稿の書き出しにふさわしいと腑に落ちる書き出し、が大事なのである。
しかし、それだけではない。物事には背景というものがある。行き詰まりは、もっと深刻な理由につながっている。この原稿が世に出たとき付随して生ずるであろう諸々が先取りしてぼくの頭に侵入し、それらを勘案しなければという気持ちを生みだしていた。たぶんこのテーマがある時期のぼくに近すぎたことが関係しているのだろう。そしてこんな状態になることは、じつはずっと前からうすうすわかっていた。だからこれまで書こうとしなかったのである。
人間が何かを創作する瞬間に、こうした迷いは邪念でしかない。じぶんをがんじがらめに自縛し、みずから身動きできなくすることになる。こんなことを書いてもきっと誰も読んでくれないだろうという気持ちさえ生じつつあった。ぼくにはこの原稿が収まるべき「かたち」が見出せなくなっていた。
その状況はちょうどオートバイで転倒したときと似ている。ぼくがすべきことは、じぶんとバイクがどんなダメージを負っているかを点検し、復旧への道筋を敷きなおすことだ。
あらためて順をおって考えなおしてみる。テーマについて言うべきことをいまのぼくがかかえているのは、たしかなことであるようにおもわれた。それは、他人がどれほどの価値を見出すかはともかく、誰がなんといおうと、ぼくでなければ言うことのできない性質のものであるだろう。けれども、「言うべきこと」がけっきょく何なのかは、事前にどれだけ思考したとしてもやはりぼんやりとしており、最終的に原稿として書きあげてみるまでは絶対にクリアにはわからない。だからぼくは、誰に遠慮することも阿ることもなく、じぶんの言うべきことを言うべきかたちで書くよう、持てる力をすべて注ぎこんで執筆にとりくまなければならない。それは、「読むひとのことを考えて書きましょう」という水準とはちょっと別の話だ。もしじぶんの言うべきことを言うべきかたちで書くことを避けてしまえば、当然の報いとして、いずれ何も書けなくなってしまうだろう。
そう考えたら、あとは早かった。よけいなことは忘れて、書くべきことにストレートに向きあえばいい。二日で書きあげることができた。一晩寝かしてから修正して脱稿。その雑誌には少々不釣りあいな密度の文章かもしれないが、それはもうぼくの案じることではない。
なぜ書くのか。それは誰よりもまずじぶん自身のためである。じぶんが思考し書くべきことが何なのか、それを精確に見きわめるために、できるかぎりの創意をこらし、魂をこめて文章をつむぎだす。それがぼくにとって「書く」ことだ。どんなにささやかな文章であっても、それをつうじて世界を変えるのだという気持ちを失うことなく、書く(むろん何も変わりはしないのだが)。それが結果として、読んでくださった誰かにとってほんのわずかであっても意味あるものとしてうけとられることにつながるのなら、もう言うことはない。だがそれはあくまで結果にすぎず、ぼく自身が制御できる範疇を越えた事象である。だから、そんなことは先取りしない。いまのぼくが書くべきことを、ひたすら必死で書く。
たとえナイーヴといわれようと、こうした姿勢が根本になければ、じぶんなりに納得がいき、また人様に読んでもらえるようなものは書けない。少なくともぼくのばあい、それは真理だと信じている。この原稿を書いてよかった。
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