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集中講義

雨の函館

函館に来ている。到着した日も含めて今日で三日目。ずっと雨だ。

最高気温22度くらい。東京とは10度も低い。半袖のTシャツだけでは肌寒い感じである。

函館では、公立はこだて未来大学でデジタルストーリーテリングで集中講義をしている。かれこれ7年目になる。非常勤の仕事は、2年ほど前に思いきって整理させてもらった。ここだけはいまのところ例外的で、毎年この時期に訪れている。

函館の学生たちのリアリティみたいなものに触れられることが、たぶん好きなのだとおもう。ぼくがふだん接している首都圏の大学生と共通する部分もあるし、異なっている部分もあり、その混淆ぐあいが興味深い。

学生の生活環境もだいぶ異なっている。

明学の学生に訊くと、自宅から通学している学生の割合が多い。いっぽう未来大では、その割合はひじょうに少ない。多くの学生が、道内や道外から来て、大学近辺で部屋を借りて暮らしている。工学系の学校だから、大学も24時間開いているし、実験や実習で毎日遅くまで学校で勉強している。4年間ずっと合宿しているみたいな感じなのかもしれない。

授業のほうは、すでに構想発表も済み、いまは絵コンテを切っている最中だ。

今年の学生たちはどんなふうに課題に取り組み、どんな作品をつくってくれるだろうか。楽しみである。


「なぜ働くのか」公開

夏におこなった集中講義(ワークショップ)をドキュメントとしてまとめたウェブサイトが公開されました。

http://www.meijigakuin.ac.jp/~art/gallery/100805report_about.html
http://www.meijigakuin.ac.jp/~art/gallery/100805report/top.html

対象は明学・芸術学科の芸術メディア系列3年生。「なぜ働くのか」というテーマで、3日間(5日間)にわたり討議して考えをまとめ、上演形式にて発表するというワークショップです。指導には、メディア系列の教員3名(岡本章・望月京・長谷川)が総出であたりました。取材と製作はうちのゼミ生たち(4年生)。かれらは一年前の受講生でもあり、たんに後輩たちの活動を記録するだけでなく、過去のじぶんたちをふりかえる経験でもありました。


函館のパノラマ

集中講義は今日が三日目。今年もデジタル・ストーリーテリングをやっている。

当然いろいろな学生がいるわけだが、全体としての雰囲気というものは確実にある。年によって少しずつ違うが、今年は全体に素朴でまじめ、といった印象だ。明日が発表だから、明朝までには作品を仕上げて提出可能な状態までもっていかなければならない。今晩が山場である。いまごろ必死に作業しているであろうし、そうであってほしい。

ところで、昨日(二日目)は企画検討会だった。授業の終業時間がすぎても終わらず、一時間ばかり居残り組の話を聞くことになった。ひとりの学生が、自転車で大学の近辺を走りまわったときの話をしてくれた。公立はこだて未来大学は、函館山と正対する山の中腹にあるのだが、その奥へゆくと、さらに展望のひらけた場所があるという。

その風景を見てみようと、遠まわりして帰ることにした。何度か下り、何度か登る。最後の坂を登りきると、急に視界がひらける。その先は一面の畑だった。

畑は海にむかってゆるやかにくだっており、函館湾と接する手前に街が帯状にひろがっている。真正面の奧に函館山、右手に松前半島。その山々の稜線に、夕陽が沈もうとしていた。

一直線に刻まれた道が、地形のパノラマを切り裂いている。その上を、ランクルでゆっくりとすべり下りていった。


いつ休むんですか

今年も集中講義が終わった。「講義」と名前はついているが実質はワークショップだ。土日をはさんだ五日間でひとつのテーマについて討論し、演劇とデジタル表現を組みあわせたパフォーマンスに表現して発表するというもの(2008年度の記録2009年度の記録)。今年のテーマは「なぜ学ぶのか」。最終日の発表を終えたあとは、受講した三年生とサポートした四年生で五反田へ出て打ち上げ大会となった。卒業生もあらわれて、たのしい時間となった。

さて、これでようやく夏休みである。「休み」という名前ではあるが、世間でいう「休暇」とはちがう。まとまって時間がとれるほぼ唯一の期間であり、それは執筆にあてられることになる。すでにこの夏に書くべきものは予定されている。

学生たちはそのあたりの事情をうすうす察知しているのか、よく「いつ休むんですか」と訊かれる。どう答えればいいのやら。

たしかに、夏期休業中も、ふだんの授業期間中も、ふつうの意味でいう「休み」はない。だからといって、のべつまくなし仕事に追いまくられているワーカホリックをイメージされると、それもちょっとちがう。けっきょく、ものを考えるのも、あれこれ資料を探して調べるのも、文章を書くのも、学生とえんえんと話をしているのも、どれもそれぞれ異なる意味で「愉しい」のだ。だから強いていうのなら、「いつ休むんですか」というような問いが成立しにくいようなところで暮らしているということになるのかもしれない。

ただし「愉しい」といっても、単純に面白おかしいのとはちがう。局面だけみればしんどいことの連続である。たとえば、書くことは好きだが、同時にそれはこれ以上なく辛い作業でもある。天才的な批評家はいざしらず、ぼくのような人間のばあい、執筆とは思考を写しとるような作業なのではなく、かなりの精度と密度で思考してゆくことだからだ。それは誰にとっても、楽な仕事ではないだろう。だからついつい、書きはじめるのを先延ばしがちなのだ。

そういうとき、こうやってブログの原稿を書いたりする。これを助走路にして本来書くべき原稿にとりかかれればうれしいわけだが、ブログをアップしたところでくたびれて終わりということも、しばしばある。そうしてじぶんの駄目さ加減を目の当たりにして、ますます落ち込むのである。


夏空

ゼミ合宿は充実のうちに終了した。それにしても修善寺は暑かった。都内と大差ないほどだった。

最終日は朝からきれいに晴れわたった。夏の空に夏の雲が浮かび、そこから強烈な陽射しが吹き出てくる。日の高さは盛夏のそれだ。だが奇妙なことに、そこには幾分かのもの悲しさが含まれているようにもおもわれた。たしかに夏空なのに、光や風のぐあいに早くも夏の終わりが感じられるような気がしてしまう。

今日の市川は、終日よく風が吹いた。夕方に部活から帰ってきた《みの》が、「なんだか秋みたい」とつぶやいていた。

明日からは白金で恒例の夏期集中講義。土日をはさみ実質5日間のワークショップが始まる。


夏のゼミ生たち

前期が始まったころ、今年度の卒論ゼミ生たちの状況が全体にかなり厳しいということを「散歩の思考」にも書いた。まじめではあるが、言われたことをこなすことしかせず、こちらの顔色をいつもうかがって、それで十分がんばっていると思いこむ。そんな姿勢だった。ゼミ長の交代を余儀なくされるなど、一時は相当に覚悟を決めねばどうにもならないとおもっていた。

ところが、その後かれらは劇的に変化した。

いまや指導教員などほぼおかまいなし。しょっちゅう卒論の話しあいやら、8月初旬に実施予定の集中講義(名前は講義だが中身はワークショップである)の準備やらを進めている。じぶんの意見もいえるし、まっとうな批判もできるようになった。批判に耳を傾けることさえできるようになった。

じぶんたちなりのアイディアも出し、それを展開してゆくこともしはじめた。昨年のゼミのやり方をそのまま踏襲するのではなく、じぶんたちに必要なことは何かをよく考えて、それを実行にうつす。夏合宿で各自の卒論テーマ決めをする予定なのだが、それに先だち「プレ合宿」と称する会合を実施したらしい。土日にわざわざ大学に集まり、ゼミ生だけで卒論テーマについてえんえん話しあっていたという。

これほど劇的に変わったその転機がいつであり、何だったのか、ぼくには思い当たらない。ぼくはぼくなりにあれこれ働きかけはした。だが決定的な処方を施したわけではない。ぼくにはそんな力はないし、それほど便利な魔法などそもそも存在しない。かれら自身が、じぶんたちの意識変革と努力によって、少しずつ、みずからの殻を破ってきた。その結果だとしか言いようがない。

ゼミ生たちのそんな姿を間近に見られるのが、大学教師という仕事の、いちばんうれしい瞬間なのかもしれない。

明日から夏合宿だ。


野菜と札幌

旅暮らしで困るのが野菜である。摂取の機会がふだんよりずっと減る。基本的に外食ばかりなので、自宅にいるときのような食事内容など望むべくもない。

札幌で泊まっているのはごくベーシックなビジネスホテルだ。朝食も、よくあるビュフェ形式である。ところが、ここは野菜類のおかずが多く出る。ゆでたアスパラガス、ブロッコリー、刻みキャベツ、トマト、ほうれん草のおひたし、おくら、かぼちゃの含め煮、とろろなど。うれしくなって子どもみたいについあれもこれもととってしまい、結果として食べ過ぎて、からだが重くなる始末である。朝から晩まで授業しているといっても、疲労感に釣りあうだけの運動量があるわけではないのだ。

ビジネスホテルとして、ここはちょっと変わっている。ウィークリーマンションみたいなのだ。部屋も設備もやや古びている。ソファには小さな穴があき、ベッドはやたら幅が狭く、バスルームも狭くて、むろんウォシュレットなどついていない。一方で、洗濯機と乾燥機が各部屋に備えつけてあり、無料でいつでもつかえ、ミニキッチンがあって、ヤカンと魔法瓶が常備されている。建売住宅の子ども部屋によくあるような勉強机が据えつけられ、卓上ライトまで備わっている。コンビニやスーパーも至近。すすきのからは離れているが、目の前の駅から地下鉄を利用すればすぐ。その気になれば歩いてだって行けなくもない。でも学生御用達ふうの飲み屋なら、周辺にいくらでもある。

観光客に向くかどうかはわからないが、ぼくはけっこう気分よく過ごしている。北大キャンパスまで歩いて1分だし。──といいつつ、そんな札幌生活も、そろそろ終わりとなる。


方法としてのデジタルストーリーテリング

デジタルストーリーテリングで映像作品をつくります──というと、いろいろな学生があらわれる。

少数ながら毎回混入しているのが、勘違い系とでもいうのだろうか、映像製作という愉しげな言葉だけに釣られてやってくるタイプの学生である。かれらの特徴は、おのれの「感性」とやらを実現したいという欲望にのみ忠実なことだ。たいていのばあい、かれらの語る「感性」とはいたって凡庸なステレオタイプであり、とりたてて独自性の感じられるような類のものではない。ひとりよがり、混乱、じぶんだけが勝手に気持ちのいいマスターベーション。だから他の学生やぼくのコメントやアドバイスにたいして、まるで耳を貸す用意がない。かれらの関心はおのれの欲望を満たすことだけにあるのだから、当然といえば当然だろう。受講態度は、いきおいまじめとはいいにくいものになる。まじめとは、けっして、くそまじめという意味ではない。課題に真摯に取り組む姿勢が欠落しているということだ。

ではまじめな優等生がいいかというと、それもちがう。かれらは答えを先回りして察知する術には長けているが、答えのあらかじめ定まっていない問いに向きあい、じぶんの知力をふりしぼって、粘り強くものを考えることには慣れていない。「答え」は教員が隠しもっているという発想のなかに棲みついている。相談と称して「答え」を探りにやってくる。ぼくのアドバイスを聞いたあとの決まり文句は「××すればいいんですか」「△△すれば大丈夫ですか」である。

むろんかれらとて、じぶん自身の語るべきテーマはもっているにちがいない。だがそれは分厚い皮膜に覆われ、ふだんは本人ですら触れられない深みに格納されている。かれらがまずしなければならないことは、その皮膜を一枚ずつ引きはがし、じぶん自身を掘ってゆくことだ。

他方で、課題を説明した段階で、すでに語るべきテーマを見つけだしている学生もいる。えてして優等生でも目端の利くタイプでもなく、どちらかといえば一見冴えないほうかもしれない。かれらに共通しているのは、じぶん自身ではどうにもできないような、少なくとも当人にはそう感じられて閉塞してしまうような状況を経験してきたことである。

今回の函館のばあい、小中高といじめにあっていたという男子学生が、その典型だった。高校までのいじめの経験もあって、生来の引っ込み思案に拍車がかかり、ひととどう距離をとっていいかわからず、じぶんの殻に閉じこもっていた。大学に入学しバス通学の道すがら車窓を眺めているうちに、それが毎日変化していることに気づいた。そのことから、まわりのことをあれこれ言うよりも先に、じぶん自身を変えなければならないと気づく。そこで勇気をだしてじぶんから同級生に話しかけてみる、というお話である。

かれのようなケースでは、ぼくにはもうほとんど何も言う必要がない。むしろ過剰に介入して邪魔をしないよう気をつけるべきである。いつものごとく途中何人もの学生が受講からフェードアウトしてゆくなかで、かれは粛々とじぶんのするべき作業をすすめた。できあがった作品は、期待に違わず力のこもったよい作品だった。同時にかれのチームはひとりの脱落者をだすこともなく、全員がさいごまで走りきった。

映像制作といえば、昨今あちこちの大学で流行っているようだが、その大半は既存マスメディアの物まねをさせて学生をよろこばせるか、ノウハウの習得か、でなければ「情報伝達」という側面ばかりを無邪気に強調したものだ。そこで忘れられているもののひとつが、作品性である。

乱暴を承知でいえば、ぼくにとっていまや「情報」などどうでもいい。大事なのは「人間」であり「作品」であり、そして人間が作品をつくり、流通させ、それに接するという事実のほうだ。作品は、才能とテクニックとによって捏ねあげられるものではなく、ひとりの人間としての存在になんらかの形で触れることで成立する。作品が根本においてもつ批評性とは、そこにかかわっている。そのことをこの授業のどこかで実感してもらえば、ぼくとしては十分だ。

ただもう一方で、ぼくのデジタルストーリーテリングのこうしたやり方は危うさをはらんでもいる。一歩まちがえば批評性が骨抜きにされ、容易に自己啓発セミナーやセラピー的なノウハウへと転落してゆきかねないからだ。むろん制作という実践からそのような陥穽を完全に排除することは、原理的にできない。仮にできたと主張するものがあったのなら、そうした安全安心な過程が生産するのはたんなる製品でしかあるまい。個人的には、すでにワークショップという手法自体が、そのような道筋をたどって骨抜きにされつつあるように感じている。

これまでのところ、そこへ滑落せずになんとか踏みとどまっていられる最大の理由は、その怖さをつねに意識するようにじぶん自身を仕向けているからだ(もうひとつの土台は、編集者時代に蓄積された経験である)。

ぼくのこのやり方は骨の髄まで文脈に依存したものである。学生がどんなアイディアをもってくるかは、やってみなければわからない。経験や予想では対処しきれない事態が表出しても、その場でただちにもっとも適切な対応を選択しなければならない。ぼくが頼りにできるものといえば、わずかばかりの知識や、これまでの経験とそこで培われた感覚だけだ。それらを総動員して授業にのぞむのだが、そこまでしたところで、つねにうまくゆく保証などどこにもない。こんな方法をマニュアル化してユニヴァーサルに適用しようとするのなら、そのとたん、そこには転落への道が巨大な口を開けて待っているにちがいなかろう。

いま北大で実施している集中講義でも、理学系の修士院生を対象にデジタルストーリーテリングをおこなっている。おどろくべきことに、2名の先生が院生にまじって受講されている。その姿勢にはほんとうに頭が下がる。ぼくの授業にそれだけの価値があるかどうかはともかく、かれらがぼくのやり方から何らかの霊感を得てくださり、デジタルストーリーテリングが日本でもさまざまな形でひろまってゆくとしたら、うれしいことである。

ただ上述のとおり、ぼくの方法は根本的なところでぼくの個性に依拠している。デジタルストーリーテリングといっても、べつにがっちり固まった方法論が存在するわけではない。いろんな方法がある。先行事例を参照しつつ、各自がそれぞれの個性や目的や文脈にかなったやり方を、試行錯誤をとおして編みだしてゆく。それがけっきょく、最善の道だろう。ぼく自身もそうしてきたのだし、いまもそうやって実践から多くを学び、貴重な霊感を得ている。だからこそ、細々とではあれ、実践を重ねつづけられているのだとおもう。


函館

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今年もまた函館に来ている。集中講義は三日目が終わった。デジタルストーリーテリング作品の制作で、学生たちの多くはいまもおそらく作業中だろう。明日はいよいよ発表である。


10日間

集中講義が終わった。昨年とはいろいろな意味でだいぶようすが異なっていた。この授業は同じ芸術メディア系列の岡本章先生や望月京先生とのチーム・ティーチングなので、三人そろって学生企画の打ち上げに参加したのち、二次会につきあうこともなく、よたよたと帰宅。

8月に入ってからというもの、名古屋のコスプレサミット取材、ゼミ合宿、集中講義と連続して仕事がつづいた。しまいのほうは日にちや曜日がもうよくわからなくなっていた。怒濤の10日間といえばまさにそう。とにかく、これでもう前期はすべておしまい。

切替ねばならないとわかっているのだが、頭も身体も、一晩寝たくらいではそう簡単にリセットしてくれない。今日は新宿まで出た。うたた寝しながら総武線に揺られていたら、幕張から先で線路の路盤陥没のため不通とのアナウンスが入る。ここ数日の大雨やら地震やらの影響だろう。先日合宿でお世話になった伊豆は、だいじょうぶなのかしら。数日ちがったら、ぼくたちも被災していたかもしれない。

以下に、打上の席上で三年生から聞いた話を追記しておく(090812)。

学生だけで作業していた土曜日のこと。日が暮れかかると、どーん、どーんと音がしはじめた。誰かが、東京湾の花火大会だ! と叫んだ。すると食堂で作業していた三年生たちは一斉に席を立ち、ふだんはあまり立ち入らない校舎の高層階をめざして階段を駆けあがっていった。上層階に着くと、花火が見えた。みんな窓にへばりつくようにして、ガラスの向こうに打ちあがる花火をながめた。室内であるにもかかわらず、火薬の匂いと潮の香りが漂ってきた。


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