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電子書籍

読書人とユリイカ

読書人とユリイカに寄稿した。

読書人は、7月23日発行号掲載「2010年上半期の収穫から」という読書アンケートである。「収穫」などというと偉そうで柄でもないのだけれど、せっかくの機会なので、つぎの3点を選んだ。

どれもとびきりおもしろく、かつ重要な本である。書店や図書館でぜひ手にとってくださるとうれしい。

ユリイカのほうは電子書籍特集のなかの一篇。といっても、ぼくの論考は明らかに異端である。Kindle/iPad的な電子書籍「祭り」を、かなりの距離をおいて眺めている。

この「祭り」を構成する言説は、過去のみごとなまでの反復である。そして過去の議論と同様、冊子の書物と電子書籍とを同一線上におくことを前提としているが、ぼくには両者が連続しているとはまったくおもえない。興味深いのは、そうであるにもかかわらず、なぜ多くのひとたちが連続していると見なすのか、あるいはそう見なしたがるのか、という点である。この話はいずれ書くつもりの単著につながってゆくはずです。

大学図書館とデジタル化

大学図書館問題研究会のオープンカレッジという催しに講師として参加してきた。大学図書館のライブラリアンや関係者の勉強会のようなものらしい。今回与えられたテーマは、学術情報の電子化と大学図書館、というようなことだった。

講師といってもレクチャーするわけではない。ワークショップ形式の座まわしみたいなことをし、あとで他の2名の講師とともにパネルディスカッションでしゃべる。こういう形式で実施するのは初めてのことなのだそうだ。

お二人の講師は旧知の間柄だったようだが、ぼくとは初対面だった。先方はぼくのことなど知らなかっただろう。講師どうしによるパネルの発言では、教えられるところもあり、また、ぼくから見れば俗流メディア論としかいいようのない話も含め、異なる点もいろいろあった。しかしそれは立場や考え方が違えば当然ありうることであり、少なくとも両者に議論する用意がありさえすればいいだけのことだ。

いずれにせよお二人に共通していたのは、デジタル化する現在の状況を、少なくともそれぞれの立場において本人なりに引き受ける覚悟をはっきり持っていたことである。

いっぽう図書館関係の参加者たちのほうは、どうか。全般にいえば、ちょっと歯がゆく感じられたといわざるをえない。

もちろん大学図書館の現場では現場なりにそれぞれ悩みがあり、考えがあるのだろうということはわかる。それに真摯に向きあおうとしてもいるだろう。だから休日にもかかわらず、こうして勉強会に参加しているのだろう。

けれども、ではデジタル化をじぶんの問題として引き受けてゆくような覚悟がどれほどあるのか、となると、残念ながらそれはあまりはっきりとは感得できなかった。ともすれば、誰かに「答え」を教えてもらえるのではないかという姿勢がかいま見えるような気がしなくもなかった。そして、そういうことは今回にかぎらず、あちこちでよく見かける光景でもある。

だとすれば、二人の講師の、現実をじぶんの立場において引き受けるという態度こそが、今回の催しから学ぶべきことだというべきだといわねばなるまい。図書館員のみなさんには、これからの図書館をつくってゆくのはじぶんたちなのだという気持ちをもって、ぜひしっかりがんばってほしいとおもう。

BEAT公開研究会「電子書籍時代の教材」

今日はiPadの日本発売日ですね。こんなシンポジウムに登壇することになりました。明日開催。

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BEAT Seminar 2010年度第1回 BEAT公開研究会
「電子書籍時代の教材:誰が作りどんな形になるのか」
2010年5月29日(土)開催
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Apple社のiPadやAmazon社のKindleなど、電子書籍の流通基盤になる個人用
デバイスが普及し始めています。アメリカでは多くの教科書が電子化され、教
材の流通に革命的な影響をもたらす可能性があります。
当面、教科書や参考書などの電子化が進むでしょう。しかし、長期的に考え
れば、電子環境への移行によってもっと大きな変化が起きる可能性があります。
このセミナーでは「誰が作り、学習者にどう届けるのか」という流通システ
ムの変革と「電子環境ならではのマルチメディアとの統合」というテーマをと
りあげ、電子書籍時代の教材の新しい形について議論を深めていきたいと考え
ています。みなさまのご参加をお待ちしております。

■日時
2010年5月29日(土) 14:00~17:00

■場所
東京大学 本郷キャンパス
情報学環・福武ホール(赤門横)福武ラーニングシアター(B2F)
アクセスマップ>>http://www.beatiii.jp/seminar/seminar-map42.pdf

■内容
1.講演1 14:05-14:50
「電子書籍の衝撃」
佐々木俊尚(ITジャーナリスト)

2.講演2 15:00-15:40
「電子書籍時代のマルチメディア教材」
宇治橋祐之(NHK青少年・教育番組部)

3. 指定討論 15:40-15:50
長谷川一(明治学院大学 准教授)

4.参加者によるグループディスカッション 15:50-16:20

5.パネルディスカッション 16:20-17:00
「電子書籍時代の新しい教材の形とは」
司  会:北村 智  (東京大学 特任助教)
パネラー:長谷川一(明治学院大学 准教授)
宇治橋祐之(NHK青少年・教育番組部)
山内 祐平 (東京大学 准教授)

※iPadとKindleの体験コーナーを開設いたします。

■定員
180名(お早めにお申し込みください)
申込ページ:http://www.beatiii.jp/seminar/index.html

■参加費
無料

■懇親会
セミナー終了後1F UTCafeにて
参加希望者(¥3,000)

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清水幾太郎「テレビジョン時代」

いま3年生の講読の授業で清水幾太郎「テレビジョン時代」を読んでいる。初出は1957年。『思想』11月号の特集「マス・メディアとしてのテレビジョン」の巻頭論文として発表された。

一般にこの論文は、テレビ黎明期において当時の最新メディアであったテレビの可能性について論じた先駆的論文と位置づけられている。ぼくもそのように教わったし、そう教えてくださったひとりである吉見俊哉先生も、2003年の『思想』12月号に再録するにあたって、そのような位置づけの解題を書いている。

発想の中心にあるのは、テレビジョン技術が実現する、イメージの直接的な現前性である。発想としては一種の技術中心主義であり、テレビ以後の展開を知っている今日の目からみれば古くさいと感じられるところも少なくない。それでも、いまなお、やはりひじょうに重要な論文のひとつであることはまちがいない。ぼくはこの論文を何度も読んだ。

しかし、読めば読むほど、ここで中心に論じられているのは、テレビジョンではないようにおもわれてならない。清水さんのまなざしは、テレビを経由したうえで、書物へ向かっている。テレビの圧倒的に直接的な現前性のリアリティのまえに、わざわざ読書などという七面倒な努力を要請する書物がいかにも「無精」で「骨の折れる」メディアだと感じられるようになってゆく。

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iPadと電子書籍(2/2)

読書論といえば従前さまざまな蓄積がなされてきた。それらはそれぞれ、文芸批評や文化研究や認知科学など、基盤とする領域ごとに何系統かにわけられようが、いずれにも共通するのは、読書という一見受け身にみえる行為がじつはどれほど多様で創造的な営みであるかを明らかにしてきたことにある。

したがって、先述のようなユーザー生成コンテンツ的サービスと結びついた電子の「書籍」は、そのような多様性や創造性にある種の具体的な形を与えたものだと解釈することも、できなくはない。おそらく実際の開発にあたっても、そうした知見を下敷きにしているにちがいなかろう。

このときひとつの事実を看過してはならない。従来「読者」に経験されてきた「読書」の豊饒さは、いったん閉じられ固着されたテクストの上に成立していた、という事実である。ユーザー生成コンテンツ・サービスにおいてはまったく事情が異なる。そこでは作品だろうがコメントだろうがつぶやきだろうがすべての言明は同列に扱われ、特定のテクストに特権が付与されることはない。すべては「ネタ」なのだ。読書の多様性や創造性はそれ自体がコンテンツとしてシステムにとりこまれ、矮小化されてゆくことを免れえないだろう。

これら二つの「読書」とよばれる経験は似て非なるステータスにある。すでにわたしたちはケータイやiPhoneで「読書」しているのだが、そうした行為は「読書」をより拡大させるとともに、「読書」を内側から解体してゆく。

そこで「汎用機」だ。

冒頭に述べたように、iPadは「汎用機」である──かのように見える。IT業界的にベタにいえば、ネットブックと同じカテゴリーにぶつけてきたのだから、当然ということになるかもしれない。

たしかにiPadは、これまでネットブックを拒絶してきたアップルの、このセグメントにたいするひとつの解答だといえる。別言すれば、アップルがここに商機をみているという証左でもある。ひととおりの作業ができてハンディ、安価にして貧相。それがネットブックの特徴だった。それらが小指をかけながらもとりこぼしてきたのと同じマーケットを見ながら、しかしiPadのアプローチはまったく異なる。というより、アップルにすれば、ネットブック・メーカーはマーケットをちゃんと把握できていなかったくらいということかもしれない。

では、アップルがiPadで開発を目論むマーケットとは何か。いってみれば、それはわたしたちの「日常」であり、そこでの身体である。

iPadにおいて前提されているのは、ビジネス用途やら電子書籍向けやらとかといった、産業的に縦割りにされた既存の区分ではない。そもそも制度的枠組みのどれかに対応させようという発想には、どう見てもない。そういう製品であるにもかかわらず、これを既存の枠組みの中から眺める者には、この製品が「汎用機」であるように見えてしまうのだ。

iPadで焦点となるのは、ごくふつうの日常生活を構成するふるまいのパターンである。通常の区分でいえば、それらはビジネスや家事や余暇としてそれぞれ別個の領域に分類され、ゆえにそれらが相互に共通性をもつことなど見落とされているだろう。しかしそれらをふるまいに着目すれば、領域を横断して共通するものを見出すことは、さほどむずかしくはない(拙著『アトラクションの日常』を参照)。

諸種の連絡や投稿、スケジュールの管理、メモをとったり管理したりすること、情報を検索して保存したり印刷したり共有したりすることや、写真や動画や音楽を再生したり、ちょっと手をくわえてまたネットに投げたりする。……こうした、さほど複雑ではない諸々の作業に属するふるまいにおいて必要とされる身体技法は、じつはそれほど多様性に富んでいるわけではない。だからタブレットという形状とマルチタッチというインターフェイスの組合せが利いてくる。

そして「読書」もまた、そうした日常的身体技法群のなかのひとつのアイテムにすぎない。少なくともiPadにおいては。

アップルははっきりと見切っている。「書物」をどうデジタル化するかなどという視点にさして展望は認められないことを。「読書」という行為に着目することで、それがわたしたちの生活を織りなすもろもろの日常的実践のなかに解消させられてゆくであろうことを。身体のレベルからこそ、書物と読書が長らく保持してきた特権性を解体しうることを。

AppleTVやiPhoneの発表時、ジョブズはアップルがテレビや電話を「再発明した」とことさらに強調したのだった。今回かれの口から「書物を再発明した」という台詞は聞かれず、代わりに飛びだしてきた言葉が、何あろう「リベラルアーツ」だった。それはつまり、こういうことである。

─了─

iPadと電子書籍(1/2)へ戻る

iPadと電子書籍(1/2)

アップルからiPadが発表された。先月末のことだ。あれから二週間以上たつ。

日本の新聞・テレビなど既存マスメディアでは、電子書籍市場がいよいよ活気づくというような図式のなかで語られることが多い。出版業界もだ。米国で好調のアマゾンのKindleへの対抗馬というような意見もよく見かける。

間違いではない。けれども一面的で偏っているような気がする。

たしかにiPadにはそれまでアップルが取りこんでこなかった電子書籍リーダー機能が与えられている。iPadには最初から電子書籍リーダー用アプリケーションiBooksが含まれ、iTunesの電子書籍版であるiBookstoreも用意されている(日本では未整備だが)。ジョブズのプレゼンテーションでもKindleが引きあいに出されてはいた。

けれどもiPadは電子書籍端末ではない。ベタな言い方をするならば「汎用機」だ。電子書籍リーダー機能はいくつも具わる機能のうちのひとつの柱にすぎない。専用機対汎用機という図式は凡庸きわまりないとはいえ、ある種の本質を指し示してはいる。こと電子書籍にかんしては。

専用機でないのだからiPadは電子書籍端末ではない。この事実の意味はことのほか大きいのようにおもう。現状がどうであれ、iPadにたいするアップルの期待は、世間がふつうに想像する電子書籍、すなわちディスプレイ上で読書を提供する装置、という水準にとどまるほど謙虚であるわけがない。

電子書籍をたんにテクストがデジタル化された新聞・雑誌・書籍と考えるかぎり、それを講読したり閲覧したりする機能だけでは、ユーザーにたいし十分な訴求力を発揮しうるとはいいにくい。現在の流れからして、あらかじめあつらえられた情報をただ摂取するだけというのではなく、そこにユーザーがなんらかの形で積極的に参加するものでなければ、ユーザーに向かって新鮮なサービスをアピールできないだろう。現段階でiPadにはそこまでの用意はない。だがきっと視野に入れているはずだ。

別の角度から見てみよう。

デジタル化されたテクストをただ講読・閲覧する機能だけでは、商売としてさほど旨味はない。ユーザー生成コンテンツによってユーザーを引き込んだうえで、そのユーザーの属性を情報として吸いあげるのがこの種の商売の妙味である。そしてそのサービスは、リアルタイムで提供されることが望ましい。なぜならそれによってユーザーを少しでも長くつなぎとめておくことが可能となり、それゆえユーザーの行動情報を漏れなく根こそぎ収集できるからだ。(参照「リアルタイム・ユーザー生成コンテンツ批判」)

つまり冊子の「書籍」をただデジタル技術の上で組版し配信する程度の電子書籍では、メーカーにとってもユーザーにとってもあまり意味はないのだ。そんなもので満足とばかりに安穏と構えていられるのは、せいぜい既存の出版産業・新聞産業くらいのものである。

電子書籍・電子出版は、遅かれ早かれ良かれ悪しかれ、なんらかの形でユーザー生成コンテンツ的な形態へと転換してゆく仕掛けが介在することになるだろう。そのときそこでやりとりされる商品やサービスに「書籍」や「新聞」や「マガジン」というような名が付けられることがあるかもしれない。だがたとえそうだとしても、あくまで名前の上での話だ。それは冊子体のそれとは多分に異なる経験をもたらす装置でなければならないのだ。

iPadと電子書籍(2/2)へ続く

電子ブックの2010年

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

2010年が始まった。今年日本でもブレイクの見込まれるもののひとつが、電子ブックリーダーであり、それに連動するネットサービスである。すでに米国ではアマゾンのKindleはじめ電子ブックリーダーがけっこうなヒット商品となっている。年明け早々には、かねて噂されてきたアップルのタブレットも発表される見通しだといわれている。アップル・タブレットはもちろん電子ブックリーダー専用機などではないのだとしても、その機能を主要な柱に据えた製品である可能性はかなり高そうだ。すでに音楽で十二分に成功したように、iTunesと統合して電子ブックサービスを連動させてくることは容易に想像できる。

ただし電子ブックリーダーというデバイス自体の登場は今回が初めてというわけではない。もうこの10年ばかり手を替え品を替え登場しては消えていくのをくりかえしてきている。今年の動向が重要なのは、それがいよいよそれなりの規模の市場として日本でも本格的に立ちあがるかもしれないことである。

もっとも日本のばあいは米国とは事情が少々ちがう。わざわざ専用機などつかわなくても、ケータイでさまざまなテキスト(当然マンガなども含まれる)を読むことは、すでにごく当たり前の光景だ。ぼくでさえ、夏に買ったiPhoneの利用時間のうちかなりの割合をテキストを読むことに費やしている。そこに電子ブックリーダーが浸透してゆくとすれば、たんにテキストをネットで買って読むというだけではなく、何か別のライフスタイルに巻き込んでゆくようなアイディアが不可欠だろう。それはおそらくは、なんらかの意味でユーザー生成コンテンツ的なサービスなのだろうが、具体的にはなんともいいようがない。

重要なことは、こうした現象についてどんなスタンスでものを考えるか、である。ぼくの立場・役割ははっきりしている。

新しい商品やサービスや市場についての「予言」や、どうすれば一儲けできるかという話について、それらしい言葉──「つながり」「発信」「便利」「新しい」「アナログからデジタルへ」など──をまぶして語るような類の話は、ビジネスマンやシンクタンクやITジャーナリストにまかせておけばよい。ぼくが考えなければならない事柄は、おそらく、そうしたひとたちの大半が「役に立たない」として鼻も引っかけないような水準にある。

書物のデジタル化と総称できるようなこれら現象は確実に、「人間」と「知」のあり方の変容と相互に関係しているだろう。冷静にみれば電子ブックは紙の書物とはまったく異質なものなのだが、それを書物の変容という文脈で連続的にとらえてしまう視点そのものに鍵がある。したがって、「書物」の変容は、たんに物質的・技術的な変化ではなく、近代という時代の脊梁をなしてきた「人間」という虚構をめぐる知の布置の変容に根ざしている。

こうした事柄について考察することは、たしかに目先の利益にはまったくつながるまい。しかしこうした人文学的な姿勢は、事象を真に把握し理解しようとするうえで欠かせないことである。ほんの少し長い目でみるだけで、それはけっして無益ではないと理解できるはずだ。

メディアとは、たんに媒体やその装置や技術や産業のことをいうのではない。それは「もののわかり方」を指定するものであり、それらの配置なのだ。そのようなところから把握してゆこうとするがゆえに、あえて「メディア論」を名乗る意義があるのだと、ぼくは考えている。(100102若干修正追記)

『思想』とグーグル和解

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グーグル・ブック検索に絡んで、グーグルと米国の著作者団体が締結する和解が、ベルヌ条約を介して日本にも波及し、春にはグーグルによる公告もなされた。2003年に出版したぼくの著書も対象になっているらしい。

グーグルが、書籍のデジタル化や公開を視野におさめたプロジェクトを開始したのは2004年だから、もう5年も前のことだ。ぼくはこの問題にかんして論文を書いたこともあるのだが、しかしこれまでは、日本の出版業界のなかでまじめに耳を傾けてくれるひとは、ほぼ皆無だった。いまになって日本の出版産業は大騒ぎしているが、これまでの経緯も文脈も理解できているようにはおもわれない。そのさまは、新型インフルエンザで大騒ぎしているようすと二重写しになる。

で、このグーグル和解に関連して、発売中の『思想』6月号(岩波書店)が小特集を組んでいる。中心にあるのは、2月に The New York Review of Books に載ったロバート・ダーントンのエッセイの翻訳だが、そこに実務家による解説や歴史家による論考がならぶ。

かくいうぼくも、論文を寄稿している。題して『〈書物〉の不自由さについて──〈カード〉の時代における人文知と物質性』。グーグル的な様相をどう捉えるべきか、というようなことについて、メディアの思想的問題として書いた。

今日日『思想』がどれだけのひとの手にとられるものかぼくは知らないが、この小特集は一読の価値があるとおもう。

Amazon Kindle

かねて噂のAmazon謹製電子書籍リーダーKindleが、とうとう発売された。399ドル(5万円弱ほど)というから、アップルのiPhoneとちょうど同じ価格だ。といっても、当面は米国のみで、日本では発売しないらしい。そのせいか別の理由によるかは知らないが、日本のマスメディアは概して無関心だ。その無関心ぶりは、ネットのIT系ニュースサイトやブロガーたちの反応の素早さや厚みと比べたとき、奇妙に感じられるほどである。

鳴り物入りで発売されたKindleだが、細かな機能はともかく、電子ブックリーダーとしての枠組みに目新しさはない。ケータイ小説やマンガ配信に読者も業界も群がる日本の状況からすれば、このKindleはそのネーミングに込められた烈しい感情──この言葉は、あおる、燃え立たせる、輝かす、産むなどといった意味を含む動詞である──に相反して、牧歌的な印象をいだかせるものである。もしこの商品が商業的に成功するとしたら、この「鈍さ」が鍵になるのではないか。

Kindleが端的に示しているのは、アマゾンの「本」にたいする想像力である。それは本を冊子体という物質的な水準において捉え、それをデバイスと見なす発想だ。紙の冊子体という器に、テクストが内容として盛りつけられているという、古典的なメディアとコンテンツのイメージであり、いたって保守的で、わかりやすい。だから、冊子体の可搬性と形状をそのまま物質として実現し、ページや版面をディスプレイに置き換え、内容にあたる作品をそこに表示できるようにし、タイトルを探す書店や図書館にあたる空間をネットで提供する。こうした発想は、過去に存在した他の電子書籍リーダーと変わるところはない。そもそも専用機であること自体が、冊子体の本にわたしたちが見出してきた世界性──その基盤は綴じられた本という物質性にある──にたいして、よくいえば敬意を払っており、別言すれば、本を伝統的な範疇にとどめようとしているといわねばなるまい。

アマゾンのKindleの特徴をよりはっきりと把握したいのであれば、グーグルのすすめるブック検索と比較してみればよい。こちらは、大学や図書館、出版社と連合して、地球上の冊子体の本を片っ端からスキャンしていこうとするプロジェクトだ。米国の出版業界は、これを救世主とみるか敵とみるか日和見を決め込むかにわかれて、紛糾している。

ブック検索に限らず、グーグルの活動を支えるのは、独特の使命感である。それは、あらゆる知を断片化していわばカード化し、フラットな情報空間を構築していくという世界観にもとづいている。本日(2007年11月25日)付け朝日新聞の求人広告欄の企画記事(14面)に、グーグル日本法人社長・村上憲郎氏のインタビューが掲載されていた。村上氏は、グーグルはメディアではなく価値中立的な立場だと強調する。氏の見解というだけではなく、米国本家が掲げるとおりの主張である。だが、この発言をもし額面どおり受けとるのだとしたら、それは理解を誤る道だといわねばなるまい。すべての知は情報であり、情報はすべて検索資源だとする世界観自体、きわめて独特かつ立派なひとつの価値観であり、思想だからだ。この思想は、一方では誰しもがグーグルをつかわざるをえず、グーグルは広告媒体として栄える、という筋書きへとつながり、もう一方では、とりわけ世界性と「人間(ヒューマン)」を重ねあわせるフィクションの上に成立してきた人文系の知は、その解体にいよいよ決定的な一撃がくわえられることを意味しているだろう。良し悪しは別として。

アマゾンとグーグルは昨今、「グーグル・アマゾン的世界」などとして、つねに十把一絡げに扱われる。だが、本とくに書籍にたいする姿勢を見ていくならば、両者のビジョンやテイストの違いは端的に浮き彫りになる。物販を生業とするアマゾンにとって、本を扱うときその物質的側面を無視することができない。これにたいして、検索サービスを武器に広告媒体として主導権を握るグーグルにとっては、本は検索資源の一大宝庫──ただしいくつもあるうちのひとつの宝庫にすぎない。両者に共通するのは、いまや書籍こそがデジタル化を拒むアナログ世界の最後の牙城であり、最大の草刈り場であると見なす点にある。

以下を参照。

アマゾンのKindleはこちら

拙稿「グーグル切断──デジタル・メディア社会における「活字」と「綴じること」」(『東京大学情報学環紀要 情報学研究』70号、2006年12月所収)はこちら(PDFファイル)。

グーグル切断

7月5日、グーグル・ブック検索が、ついに日本語版の運用を開始した。同サービスは、米国では2004年に開始されている。書籍の全文検索を可能にするというものだ。

グーグル・ブック検索は、出版や書物という観点からすれば、決定的である。その登場以前と以後とで、出版あるいは書物というもののあり方やイメージを決定的に変えてしまう可能性を含んでいるからだ。「変えてしまう」というのは、はっきりいえば、「解体」だ。むろん単純な良し悪しの問題ではない。

おもえば、これまでに存在した出版の電子化にかかわる議論や実践は、反抗期の中学生みたいなものだった。純粋でナイーヴ。だがグーグル・ブック検索は違う。徹底的に違う。ここから異なるモードに移行したのだ。この切断線を、ぼくは「グーグル切断」(Googlian Cut) と名づけた。「デカルト切断」(Cartesian Cut) のもじりである。

米国においては、どうか。既存のセクターとの関係でいえば、総じて図書館からは歓迎され、出版業界は賛否二分といったところだろう。

図書館や一部の出版社にしてみれば、グーグルがその資金と技術でもって自社の刊行物を電子化してくれるのなら、こんなうまい話はない。シメタ!とばかり、飛びつく。ダボハゼ状態である。一方で、大手出版社やアメリカ大学出版部協会は、著作権を侵害し、既存出版社のビジネスモデルを破壊するものだとして、グーグル・ブック検索を目の敵にし、訴訟にもなっている。しかし、この期に及んで、けっきょく著作権しかよりどころがないこと自体が、既存の出版産業の立脚点がかかえる限界を露呈したものだといわねばなるまい。

出版産業は、書物を売って利益を得る。グーグルは、検索エンジンを利用するユーザーを標的とした広告で利益を得るのであり、そのためにネット上の検索資源自体を増やそうとする。両者の世界観が相当に異なっていたとしても、なんら不思議はない。グーグルから見れば、書籍は、質量ともにまとまって存在するもっとも潜在的可能性の高い検索資源だ。葱を背負った鴨がそば屋の店先で昼寝しているようなものである。

グーグルだけではない。MSもアマゾンもここに狙いを定めて、さまざまな手を打ってきている。デジタルメディア社会において、だれが「書籍」を領有するのか。どうやらガチンコ勝負のたたかいが始まってしまったようだ。

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