続 ガールフレンズ

──てなわけで、二度目の『ユーミンソング・ミュージカル ガールフレンズ』へ行ってきた。今度は華原朋美の主演日だ。

入りはざっと見て9割。先週の堀内敬子版と比べると、芝居も歌も演奏も、全体にこの日のほうが粗っぽかった。生身の人間のやることなので、日によって波があるのは仕方がない。VTR収録日だったことと関係があるのかもしれないとおもったのだが(DVD用の収録だろう)、ほかにも理由のあることが最後にわかった。

華原の存在感は独特だ。うたいはじめるとすぐさま世界が立ち現れる。松任谷由実の曲なのに、華原になじんで、すっかり持ち歌であるかのようにおもわれてくるほどだ。それはそれで素晴らしいことではあるが、ただし、それはあくまで華原の世界であるにすぎない。芝居のなかで存在感を発揮するというのとは違う。舞台の上に「華原朋美」がまぎれ込んでしまったかのようにしか見えないのだ。

ある意味では、華原の主役起用はこの作品にうってつけだともいえる。元アイドル歌手で歌がうたえ、名も知られており集客も期待できる。その半面、踊ることはできないし、歌や演技にしても、どこまでも「うたったり、お芝居したりしている華原朋美」にすぎず、バリエーションをもちあわせているわけではない。この作品では(とりわけ主役には)踊りも芝居もほとんど要求されないから、それでもちっともかまわないわけだ。だから、松任谷の歌詞世界のなかに華原があらわれ「朋ちゃん、ユーミンをうたう」を実践してくれさえすればうまくいくはず──という読みはあったかもしれない。

だが、それって「ミュージカル」なのか?

この作品の不幸は、制作者側に、「ミュージカル」なるものの要諦がクリアに見切れていないか、あるいは意図的にそれを避けていることに起因している。後者ならまだ望みがあるが、おそらく前者だろう。斬新なつもりで、押さえるべきツボをはずしているのだ。

もし、制作者側が標榜するようにこの作品が「ミュージカル」なのだとしたら、欠陥ははっきりしている。身体性がほぼ完全に欠落してしまっていることが作品構造上の致命傷である。そしてそのことに制作者側が気がついていないことも、だ。しかも物語といえば、既存曲の歌詞をつなげてなぞることで構築しているため、ひどく弱々しい。けっきょくただ音楽が卓越するばかりとなる。ミュージカル的なせめぎあいは一向に生成してこない。

もちろん、こういう方向性それ自体は否定しない。この方向にもミュージカルの新しい可能性は拓けるかもしれない。少なくとも、可能性がないとは断言できない。けれどその可能性をこの作品から感得することはむずかしい。なにを「ミュージカル」と呼ぼうが呼ぶ人間の勝手だが、ぼくには、なにか別の呼び方のほうがこの作品に相応しいだろうとおもわれてならない。

カーテンコール。華原が突然しゃべりはじめた。「みなさんに謝らなければならないことがあります」。喉の病気で数日間休演していたらしい。その謝罪だった。やっぱりアイドルのコンサートみたいだ。涙ながらに頭を下げる華原のようすは痛々しいものがあった(じっさい彼女の左腕には絆創膏が貼られていた。点滴の痕だろうか)。本来謝罪すべき相手は今日の客ではないのだが、いまとなってはどうしようもあるまい。制作者側も思惑がはずれて悩ましかっただろうが、折り込み済みだったかもしれない。それよりも堀内敬子だ。華原の代演は堀内だったはずだが、その内面はいかばかりだったろう。

さまざまな困難を見せつけられた思いのする公演のなかで、池田有希子の達者ぶりが際だっていた。

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