『それでもボクはやってない』と『事件』

周防正行監督の新作『それでもボクはやってない』を観た。紀伊國屋書店の「
書評空間
」のほうでは、これを浜田寿美男さんの著書『自白の心理学』(岩波新書、2001年)と関連づけて論じたが、ここでは別の視点から記しておきたい。

あちこちで話題のこの映画を、ぼくは平日昼間に日比谷で観た。満員だった。授業の一環として鑑賞にきたとおもわれる女子高生の集団から、かなり年配のひとたちまで、観客層は多岐にわたっていた。

作品は、現在の日本の裁判制度のひとつの側面を描き、それがはらむ問題を浮かびあがらせるというものだ。みずから脚本を書いた周防監督の主張は一貫して明快だ。端的にいってしまえば、官僚化による裁判制度の疲弊である。

こうした「社会派」的な主張を貫くために、ほかのさまざまな要素はそれぞれ工夫をもって配置されている。音楽は極端に少ない。登場人物はひとりの例外もなく、E. M. フォースター言うところのフラットキャラクターとして造型されている。つまり、成長したり変化したりする多面的な人物像ではなく、周防の主張を示すための物語上のパーツなのだ。「志をもちながら現実に挫折しかかった弁護士」とか「被疑者を犯罪者と前提して、その前提にあわせて無理やりにでも自供させようとする、毎日の生活に疲れた刑事」などというように。前作までとは異なり、あからさまに娯楽的な要素はかなり排除してあるが、それでも笑いを誘うように撮れてしまえるのが、周防のエラいところである。

観終わったあとしばらくして思い至った。大岡昇平の『事件』である。1961-62年にかけて朝日新聞夕刊に連載、その後大幅な加筆をへて1977年にようやく単行本として出版された。翌78年にテレビドラマ化され、さらに同年、野村芳太郎監督・新藤兼人脚本のコンビで映画化されている。テレビ版は未見なのでわからないが、映画のほうは、どろどろした(おなじみの)人間ドラマに焦点が合わせられており、大岡の原作とは関心の所在がだいぶ異なる。ここで言及したいのは、あくまでも大岡の原作のほうである。

『事件』は、『それでもボクはやってない』の先祖種である。同書「あとがき」によれば、大岡もまた裁判制度の実状を伝えたいと考えて執筆に臨んだ。少年による殺人事件が断罪される過程を描くにあたり、劇的な要素を極力排し、ドキュメンタリーふうのスタイルを採用した。両者は方法論において多くを共有する。さらに、裁判という過程が、文字どおりの意味での事実を明らかにする合理的な審理過程なのではなく、提示された証拠と言説にもとづいて、さしあたってより妥当とおもわれる「事実」を構成していく過程であるという認識においても、両者は近いところにある。ゆえに大岡は、裁判が、そこにかかわる人間に及ぼす影響についても、つぎのように記すのである。

われわれは望むと望まざるに拘わらず、誕生と共に生まれた国の法体系に組みこまれ、それを犯せば罰せられる。犯罪は「事件」として、われわれの運命を変える。しかし判決も現代のように、統一がなく裁判所と裁判官によっては違うのでは、偶然的な「事件」として被告人に作用するのではないか

だが、1960年代から70年代にかけての大岡が、最終的には、日本の裁判制度は全体としてまずまずうまく運用されているものとして描きだすことが可能だったのにたいして、それから30年以上経過した今日、周防が描かずにいられなかったのは、日本の裁判制度の絶望的な疲弊ぶりである。この映画の画面を浸す蛍光灯照明の青白い色調そのままに。

『それでもボクはやってない』のなかで戯画的なまでに執拗に描かれる裁判官たちの振る舞いとは、官僚組織に組み込まれ、弁護に耳を傾ける気もなく、ただマイナス査定をつけられないような判決をくだしてかえりみることのない態度であり、抗議する傍聴者に威圧的に接する形相である。官僚化された制度のなかで、みずから思考し決定するという責務を回避しようとするその姿は、市井のひとびと──失言政治家・不祥事をおこした企業の経営者・視聴者に受けるための捏造も厭わないテレビ番組制作者・さっそく納豆売り場へダッシュするひとびと・教室の子どもたち、など──と、少しも違うところはない。その意味では、裁判官も今世のひとに相違ない。個人として悪意をもってそのように振る舞うというよりも、いつのまにかそのような振る舞いをせざるをえなくなっているのだ。だが市井のひとびとと裁判官とでは、そうした責務に正面から向きあうことの回避がおよぼす影響はまったく異なる。かれらが就く職務とは、ひとを断罪することにあるからだ。刑事裁判で無罪が確定する割合0.005%という数字は、被疑者は起訴されたが最後、ほぼ確実に有罪を判決を言い渡されることを意味している。そこに冤罪が生じないと考えるほうが、むしろ不自然である。

大岡が指摘したように、なるほど被告人にとって裁判とは、そこで裁かれる案件となった事件のあとに生起する偶然的なもうひとつの「事件」にほかならない。その「事件」に巻き込まれるのは、「法を犯す」という「事件」のあとである、と以前ならさしあたっては信じることができた。ところが、ぼくたちの生きなければならない今日の世界では、そうはいかないらしい。何人といえどもいつ「事件」に巻き込まれるかわからない。「望むと望まざるに拘わらず」ぼくたちは満員電車に乗らざるをえない。その現実は、いつ何時「事件」への召喚状に転生したとしても、ふしぎではないのだ。たとえ何の法も犯さずとも。

「事件」はこうして幾重にも入れ子化していく。

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