デジスト2011

毎度おなじみデジタル・ストーリーテリングは、学生たちのあいだでは「デジスト」と略称されているらしい。年内最後の授業で、その発表があった。

例年に比べやや進行が遅れ気味だったのだが、学生たちは最後に猛スパートをかけて追いあげ、期日にはしっかり仕上げてきた。全体として、しっかり自己と向きあい、作品という形で表現してくれていた。この経験を土台として3年生以降の成長につなげてくれれば、うれしい。

発表までの数週間は、授業後に居残りして学生の話を聞くということがつづく。

製作の過程では2度、学生はぼくから承諾を得なければならない。第一は、どんな作品にするか、どんな題材やテーマで誰に何を言いたいのかといった概要のチェックである。いわゆる「企画」というやつだ。第二は絵コンテ。全カット分の絵コンテを切り、それをぼくに見せながら全体の流れの確認をとる。

第一段階の企画チェックで見るのは、ほとんど「それがあなたにとって切実なこと、誰かと共有したいことなのか」ということだけである。

おもしろいことに学生は、学校社会の習い性なのか、ステレオタイプの結論だけを先にたてて、こうすればいいんですか? と教師が隠し持っている(とかれらが思い込んでいる)「正解」を探るような話をしてくることが少なくない。ところが、何度か話を聞くうちに、そうした態度が変わってくる。だんだんとじぶんに向きあいはじめ、その子にしか話せないような強度をもった話をするようになってくるのだ。人間というのは不思議な生き物だと、毎回のことながら、おもう。

「話を聞く」と書いたのは修辞ではない。ほんとうに聞くだけなのだ。学生の話を聞いて、いいなと思えばそう言うし、ピンとこなければ率直にそう伝える。それを繰りかえしているだけである。

第二段階の絵コンテは、いちおうチェックと称しているものの、実際に見るのは、なるべく具体的に、という一点だけである。

学生はしばしば「困った」「悩んだ」「うれしかった」などといった観念をそのまま写真に置き換えようとする。たとえば「うれしかった」ことをあらわすためにきれいな花の写真を当てはめるというに。しかし、それではとうぜん、たんに言葉を画に置き換えただけの記号的な写真になるだけだ。観念は、少なくともそのままではカメラに写すことはできない。

ぼくの役割は、そう思ったり感じたりしたのは具体的にはどんな状況だった? と訊くことである。すると学生はそのときのようすを詳しく話してくれる。じゃあ、そうした具体的な出来事やエピソードを盛り込んでみては? と言うと、ああそうか、なるほど、とかれらは答える。ひとりひとり話が違うから、言い方はその時々で異なるけれど、ようするにぼくがするアドバイスといえば、その一点に尽きる。

この二回の関門を通過すれば、あとは学生が自力で製作を進める。もちろん、その過程でも話に修正がくわわることもある。つくっている最中にも、つねに自問したり、何かに気づいたりするのだから。今回は、そこでずいぶん思考の深化した跡のみられる作品がいくつもあった。例年にも増して家族との関係についての作品が多かった点も印象深かった。

来年の初夏ごろまでには、ウェブで公開したい。

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