オンライン・ビデオ会議における無発言者の存在感の無さについて

このような状況下、オンラインのビデオ会議・会合に何度か参加した。感想としては、もう会議のほとんどはこれで済むんじゃないか、というものだ。わざわざ出かけてゆく手間も時間も必要ない。

これまでも多くのひとが、世の中無駄な会議が多すぎると感じていただろう。その印象は、このたび否応なくオンラインで会議を開催せざるをえなくなったことによって、はっきりと照らしだされ、現実化してしまった。体感的にいえば、どうしても参加者が一堂に会して顔をつきあわせて実施しなければならないような会議は、世のすべての会議のうち2割にも満たないほどではなかろうか。

オンライン・ビデオ会議で気がついたことがもうひとつある。発言しない参加者はほぼ存在しないに等しい印象になる、ということだ。生身で時間と空間を共有していないのだから、当然といえば当然である。

それゆえ、日本における典型的な会議の様式をそのままオンライン・ビデオ会議に持ち込むと、かなりおかしな(奇妙な、滑稽な)ことになる。なぜなら、日本の会議のほとんどは、ごく少数の発言者と、大多数の無発言者から成り立っているからだ。典型的な会議の光景としては、エライひとや報告者などごく一部の参加者だけがしゃべり、あとは黙って拝聴している(もしくは、そのフリをしている)、というものだろう。つまり、参加者の大半は無発言者なのだ。

会議において発言しない者など存在意義がない、として批判する向きもある。たいていはビジネス・コンサルティング的な文脈において、ある種の米国的な会議のイメージを参照してなされる発言である。ぼくも実際、半分くらいはそれに同意しなくもない。だが現実には、参加はしたもののとりたてて発言するほどの意見も質問も浮かばないというケースも、べつに珍しくはなかろう。

他方で、発言することだけが会議参加者の存在意義であるとは限らない。会議の場に身をおいていること自体に意味があるという側面もあるからだ。当該人物がその会議に参加する資格があるという組織内における位置を可視化してもいるのだし、そうしたひとびとによって構成されるからこそ、内実はどうあれ、合議を経て決定にいたったとして、その決定を合理化することもできる。

とはいえ、こうは言ってもよいだろう。無発言者の多い会議とは、なにかを議論したり決定したりする機能的な場というより、むしろ儀礼的な場なのだと(儀礼とは何かということには、ここでは踏み込まない)。裏返していえば、会議には、機能と儀礼という二つの側面があるということだ。後者の側面が前景化すればするほど、発言をしない参加者が増える傾向にある。

ところが、オンラインのビデオ会議では、会議の儀礼的側面がきれいに消去されてしまう。無発言者の存在感は限りなく無である。不在とほぼ変わらない。身体の現前を欠いているから当然なのだが、それだけが理由ではない。アプリケーションのつくり手たちが、会議をあくまで「機能」と捉えてデザインしているためである。つまり、ビデオ会議アプリケーションは、「会議」という場と活動をもっぱら「機能」という観点のみから再構築するのだ。

緊急事態宣言発令下でのオンライン・ビデオ会議の経験を契機として、「会議」というものにたいする従来の日本的な様式や感覚は、この先好むと好まざるとにかかわらず、変容せざるをえないのではないか。

それが、ぼくたち働く人間にとって、就業形態が柔軟になり選択肢が広まるなど、より好ましい結果をもたらす部分もないではないだろう。でもたぶん、そう甘くはない。見かけはどうあれ実質は、むしろ、より残酷な方向に作用するのだろうとおもわれる。

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