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映画『グーグーだって猫である』

『グーグーだって猫である』(犬童一心監督)を観た。佳作になりそこねた作品である。

全体を覆っているのは「気配り」だ。原作と原作者をリスペクトし、小泉今日子を大事にし、スポンサーにも揉み手をし、舞台となる吉祥寺の街にも気をつかい、猫好きの観客のことだってもちろん忘れはしない。あれこれ気をまわしすぎて、くたびれはてたあげく、空中分解してしまったようだ。

物語を構築的に組みたてるのを避け、なるべく淡々とした日常のひだを描くことで主題を浮かびあがらせたい。それが、つくり手の目論見にあったのではないか。そのための基本戦略として採用されたのが、外部の視点である。主人公の小泉今日子を直接追うのではなく、アシスタントの上野樹里の視点をとおして描くのだ。これは正解だとおもう。

この基本戦略に鑑みて、マーティ・フリードマンの死神はひじょうにナイスな設定である。かれは吉祥寺の街について、外部者として、これ見よがしに外国語で語る。たんに日本社会の外部者というだけではない。死神つまり生の外部者でもあることが、やがてわかる。グーグーを誘惑(?)する白猫は死神フリードマンの飼い猫であり、かれらの遊び場である井の頭公園は、あるとき生と死のあわいの場ともなる。これらがそっと重ねあわされてゆけば、きっと深みのある展開になったにちがいない。ひとつひとつのショットのなかにも、なかなか良いものがある。

けれども本作品は、せっかく手中におさめた「良い手」を最後まで切ることなく、腐らせてしまう。直接の要因は、入れ替わり立ち替わり登場するありきたりで魅力に乏しい人物たちであり、そこに付随して描かれる、悲しいばかりに凡庸なエピソードである。

これらの大半は、おそらくは作品製作にかかわった各方面および観客にたいする気配り──サービスないし阿諛といってもいいのだが──とおもわれる。だがこれら諸要素は、上述の基本戦略に抗って、明確なドラマを志向する。にもかかわらず、つくり手はそのことに気づかず、対処の手がうたれることはない。したがって、作品としては破綻せざるをえない。

それは画面に顕著にあらわれる。ただ要素だけがむやみに平台にならべられてゆく八百屋の店先のような画面をながめているうちに、物語がいっこうに立ちあがることのないまま、上映時間は終わる。

要素過剰、組立不在というこの症状は、作品を「成功」させたいあまり、映画として何をやりたかったのかが見失われてしまったことに起因するようにおもわれる。力量のある監督だけに、残念だといわねばなるまい。

もうひとつ。こまかいことだが、コマ落としはやめたほうがいい。コミカルな感じを演出するつもりかもしれないが、逆効果である。