「もっと友だちを見つけよう」を考える

Facebookから、こんなメールが届いた。同じようなメールはこれまで何度も届いたことがある。

誘い文句は「もっと友だちを見つけよう」。そして、そのためには、あなたの連絡帳やメールアドレスのデータをインポートしなさいと勧めている。そうすれば、Facebook上で友だちをもっと簡単に見つけやすくなりますよ、というわけだ。

これ、みなさんどう対応しておられるのだろうか?

いろんな立場や考え方があるだろう。ぼくのばあい、Facebookに連絡帳のデータをあげたことはこれまでないし、今後もそうしたいとはおもわない。というのは、これはようするに、ぼくの友人や知人たちにかんしてぼくが所持している情報をまるまるFacebookに差し出してしまうことを意味しているからだ。

法律的にどうなのかは、ぼくにはわからない。もしかすると、連絡帳の持ち主の同意を取りつけさえしてしまえば、連絡帳のデータを提供させたとしても、法律上は許容されるのかもしれない。

だが、仮にそうだとしても、倫理的にはどうなのだろうか。じぶん自身にかんする情報ならいざしらず、友人知人にかんする情報まで勝手に第三者に開陳できるような権利を、ぼく自身がもっているものなのだろうか。

こうした行為には倫理上じゅうぶんな妥当性があるといえる自信は、ぼくにはまったくない。むしろ逆だ。「友だち」を得たいがために、その「友だち」についてじぶんが知っている情報を断りもなく他人に提供するという行為は、あきらかに矛盾をはらんでいるようにおもわれる。それはむしろ「友だち」を失ってしまいかねない類いの行為なのではないだろうか、ふつうに考えて。

だからぼくは、この手の「お勧め」はいっさい無視することにしている。Facebookだけでなく、ほかのSNSでも同様だ。

とはいうものの、いくらぼく自身が気をつけていたとしても、ネットを利用するかぎり、友人知人の情報が意図せずして誰かに伝わってしまう事態を完全に防ぐことはむずかしいだろうともおもう。

たとえば、SNSのなかには、うっかりしていると、ユーザーにそれとはっきり気づかせぬままに、連絡帳にアクセスする権利をユーザーがSNS側に与えてしまうようにデザインされているものが少なくない。あるいはまた、Gmailなどのサービスを利用するということは、そのやりとりや内容をまるごと、じぶんのほうから、わざわざGoogleに教えているようなものだろう。Coockieのような仕組みもあるし、ほかにもぼくにはよく理解できないようなさまざまな技術的な仕組みが介在しているだろう。

そうだとすれば、自己・他者とわず個人にかんする情報を1ミリも、SNSやGoogleなどいわゆるプラットフォーム企業に提供したくないという主義を徹底的に貫くとすれば、もはやネット全体から手を引くほかない、というような結論にまで撤退することになりかねない。

でも、それは極端でわかりやすい話ではあるかもしれないが、非現実的かつ非建設的という意味で、極論だとおもう。極論はしばしば、それをぶちあげることで相手を退けるために持ちだされる。しかし、仮に議論に勝てたとしても、それだけだ。なにも生みはしない。

プラットフォーム企業にしてみれば、ユーザーがもつ連絡帳のデータはビジネス面において有用性が高いのだろう。個人情報の集積であるばかりか、人と人との関係性にかんする情報を含んでもいるからだ。だから、そうした企業はあの手この手で——やや乱暴な言い方をすれば、合法ぎりぎりの範囲で——是が非でも手に入れようとしているように見える。

他者にかんする情報の提供を深く考えもせずに許してしまうユーザーの側にも責任はあるだろう。だが、ぼくの考えでは、より批判されるべきは、プラットフォーム側のやり口のほうだ。「友だちがほしいでしょう」と、ある意味で人間の弱い部分を巧みに突くことで、ユーザーにそれとはっきり意識させぬままに「同意」を得た形だけをつくって情報を吐きださせようとする。そのやり方は、かれらが唱える「友達や同僚、同級生、仲間たちとつながりを深められます」などという言葉のもつ口当たりの良い響きとは、対照的であるように見える。

「利便」や「利得」を見せ金に、さまざまな仕方で個人が徹底的に搾取される。しかし当人は「便利だ」「得をした」という面にばかり目をうばわれがちで、その背後にあるもうひとつの現実には構造的に気づきにくい。そして、そうした構造がますます精緻化してゆく。かといって、こうした世界から離脱するという選択肢は、事実上存在しない。それが、ぼくたちが放り込まれているメディア社会の様相なのではないだろうか。

インターネットが一般にひろく利用されるようになって四半世紀。ぼくたちはずいぶん遠いところまで来てしまったらしい。

しかしながら、好むと好まざるとにかかわらず、ぼくたちは、ぼくたちがいま生きているこの世界を生きてゆかざるをえない。その現実を現実として引き受け、よく観察する。そのうえで、では、どうしてゆくか考える。そこが、建設的にものごとを考えてゆくポイントのひとつなのではないかと、ぼくはおもう。

リアル急行北極号PM1225を見にゆく

ロバート・ゼメキス監督の映画『ポーラー・エクスプレス』(2004年)は、こちらではクリスマス映画の定番となっているみたいなのだが、その原作は絵本『急行北極号』である。日本語訳は村上春樹さん。じつはこの急行北極号は実在する。モデルになった蒸気機関車が動態保存されており、現役で走るのだという。場所はミシガン州のオワッソー Owosso というちいさな街だ。見にいってきた。