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ドリームガールズ

東急シアターオーブでミュージカル『ドリームガールズ』を観た。来日公演はこれで何度目だろう。

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今回のエフィ役モヤ・アンジェラがすばらしい。お客さんたちも大感激といったところであった。

エフィは2006年の映画版ではジェニファー・ハドソンが演って、ディーナ役のビヨンセを完全に喰っていた。もともとこの作品はエフィ役でもっているようなものであり、エフィ役を観に行くようなものである。

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『TOP HAT』を観てきた

東急シアターオーブで『TOP HAT』を観てきた。英国キャストのやつである。たいへんおもしろく観た。できることなら、あと1-2回観にいきたいくらいだった。

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作品については後述するとして、ユニークだったのがカーテンコール。このときだけはケータイで撮影可だという。撮影した写真をネットで拡散して宣伝してほしいというわけだ。そのときiPhoneで撮った写真がこれ。

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主役たちがステージで踊るだけではない。途中からアンサンブルが通路まで降りてきて踊る。

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演っているほうは大変だろうが、観ているほうは愉しい。ちなみに、ぼくの座席のすぐ前には某歌劇団のひとたちがずらっと一列ならんでおり、このときは立ちあがって拍手しておられました。

さて本作品は、RKO映画『トップハット』(1935年)の舞台化である。80年前の映画がこれまで一度も舞台化されていなかったという事実に軽く驚かされる。

しかも、映画版のほうはアステア=ロジャースものの代名詞ともいえるフィルムである。その舞台版ともなれば、どうつくったところで物言いがつくだろう。ぼくとしても一種怖いもの見たさという部分が一切なかったといえば嘘になる。前に観た舞台版『雨に唄えば』など、正直かなり残念であった。

だがそれはまったくの杞憂だった。いやむしろ、ぼくの想像をはるかに凌駕するほど、この舞台版はすごかった。ぼくのように、ミュージカルの規準はアステアだと信じている人間にとって、それは感服に十二分に値するものだ。「原点はアンドリュー・ロイド=ウェバーです」みたいなひとにはまた違う意見があるだろうけど。

もちろん俳優も歌も踊りも演出も舞台装置も、どれもとてもよく練られていてすばらしい。俳優たちの風貌や雰囲気も、映画版のそれを明らかに意識しているし、振付なども映画版のそれにかなり忠実だ。なんだか映画版がつくられて以降の80年間など存在しなかったかのようである。

そうした脱歴史性は、本作品のひとつの特徴であるだろう。じじつもっとも驚かされるのは、80年前の映画版になにも付けくわえようとしていないことである。

というと、なにかまったく工夫がないと難じているかのように誤解されるかもしれないが、そうではない。むしろ逆に、あらゆる創意工夫が施されている。

たとえば映画版でつかわれている楽曲はたった5曲しかなく、実際いま観るとスカスカで間延びしている感があるのは否めない。これにたいして舞台版は、アーヴィング・バーリンの他の楽曲を追加し(ぼくの知らない曲もあった)、見せ場たっぷりである。存分にタップを披露する主人公ジェリーはもとより、ヒロインであるデイルにはソロで存分にうたわせ(演じたシャーロット・グーチは個人的にはジンジャー・ロジャースよりずっときれいだとおもいました)、脇役であるマッジとホレス夫妻や恋敵役となるイタリア人服飾デザイナー・アルベルトにもそれぞれ見せ場を与えている。全体のテンポも速く、一幕二幕とも密度は濃い。

しかしそうしたさまざまな創意工夫は、あくまでも映画版の枠組みの内側の充実に費やされており、その外部へ踏みだすことはけっしてない。映画版を極端なまでにリスペクトし、その枠組みを損なうことなく、むしろ原作品である映画版がもし現代に転生したらどうなるか、その可能的な姿の実現をめざしているといってもよい。RKOの映画版そのままに、というよりむしろ映画版以上に映画版らしく、あの世界を展開しようとしているのだ。そしてそのパッションがあらゆる細部にみなぎっている。

たとえば現代性について。この手のリメイクでよくあるのは、原作品を「現代」の文脈で読みなおそうとするパターンだ。具体的には、登場人物やシチュエーションの設定に変更をくわえたり、舞台を置き換えたりと、しばしば手がくわえられる。しかしこの作品では、そういう「工夫」はほぼ一切なされていない。人物設定もシチュエーションもストーリーラインも、なにもかも80年前の映画版をきっちり踏襲している。

関連して、現代的なポリティカリー・コレクトな配慮も、おそらく意図的に避けられている。たとえば『グリー』のようなテレビドラマを観ればわかりやすいのだが、主要な登場人物には黒人がおりアジア系がおり障がい者がおり、といったぐあいに、現代の作品では社会のなかのさまざまなマイノリティに配慮する必要があり、それがまた実際問題コードとして機能している。

しかしながらこの点においても、舞台版は80年前の映画版そのままである。登場するのは白人の男女ばかり。イタリア人はやっぱりステレオタイプに誇張されており、「現代的」に修正しようという気などまるで持ちあわせていないようだ。のみならず、それらの特徴を、映画版よりもより強調しているとさえいえる。そして、そのような態度は、映画版のもつある種の魅力が失われることを確実に防いでいたということができる。

だから舞台版について、ひとによっては保守的というような印象をうけるかもしれない。それはそれでわからなくもないのだが、表面的な印象であるようにぼくはおもう。

なぜなら本作品は、やりすぎなくらい精密かつ壮大な「トップハットごっこ」であるからだ。原作品である映画版『トップハット』以上に『トップハット』的なのだ。それゆえ、ある種のニセモノ性と強迫性を帯びている。

こまかな例をあげるが、『頬よせて (Cheek to Cheek)』のシークエンスのデイルの衣裳も、映画版をあきらかに踏襲している。白い羽のドレスで、ターンするたびに羽が抜け落ちる。ぼくは初めてこの映画をスクリーンで観たときに、あまりの抜け毛のひどさにびっくりしたものだが、そうした細部までもきっちりと再現している。それは映画版をリスペクトする気持ちに由来するのだろうが、観る側としてはある種の過剰性を感じないわけにはいかない。

それゆえ舞台版は、ひじょうに精巧でありながら、同時に人工的で非自然的な印象を与えるものである。映画版がアナログ録音時代の音のように、音と音がまじりあって遠近感を浮かびあがらせているのだとすれば、舞台版はデジタル時代のそれのように、どこまでいっても音と音が分離して奥行き感を欠き、それでいながら隅々まで焦点があわさって奇妙にくっきりしている。

脱歴史的でニセモノ的で強迫的。であるのなら、これ以上ないというくらい現代性に富んでいるといえるのではないだろうか。

『ジャージー・ボーイズ』を観てきた

ジャージー・ボーイズ』を観てきた。舞台の来日ミュージカルである。場所は渋谷ヒカリエにある東急シアターオーブ

行ってみて驚いたのは、ほぼ満員だったことだ。キャパ2000名弱だから、それだけの集客があったということだろう。まあよかったと安心した。べつにぼくが安心しなければならないような義理もないのだが。

舞台のほうは、出だしは声がおもったように出ておらず、少しぎこちない感じだったが、しばらくすると調子が出てきたようだった。場面転換が烈しく、話を追うのに忙しい。ストーリー自体は単純なので、話が見えなくなることはない。

役者については、カンパニー制のツアーメンバーなので仕方ないことではあるのだけれど、あんまり高望みしすぎてはいけないというのが率直な印象ではある。

とはいえ、ある水準はきっちり担保されているし、すべてがすでによく練りあげられているので、誰が観ても十分愉しめる。たとえフォーシーズンズや60年代ロックの歴史について何も知らなかったとしても、だ。楽曲のすばらしさはあらかじめ折り紙つきだからこそのジュークボックス・ミュージカルである。もちろん、音楽についての知識は、ないよりはあったほうが、はるかに愉しいのはいうまでもない。

なお、ジュークボックス・ミュージカルというと軽く見る向きもあるようだが、ぼくはそうはおもわない。ミュージカルは昔からヒット曲を取り込んできたわけだし。むしろ、むやみにシリアスなテーマを扱ったり、意味ありげな音楽をつけたりされるほうが、個人的には苦手である。和田誠さんではないけれど、ミュージカルはまずは愉しいことが基本、というのが、ぼくの立場だ。

さて、エンディング近くは、客席も一緒にうたう場面である。残念ながら英語なので、日本人観客ではそこまではむずかしい。それでも、スタンディングで手拍子したりしているひともけっこう出たほどで、観客たちは大喜びだった。

『ジャージー・ボーイズ』はこれが初来日であったとおもう。ブロードウェイの初演は2005年だから、これまで10年間も来日しなかったのが不思議なくらいだ。集客に不安があったからだろう。フォーシーズンズの浸透ぐあいが、やはり日米ではちがうということだ。今回の来日公演が成功だったとしたら、それはイーストウッド監督の映画版が日本でそれなりにヒットしたことと無関係ではあるまい。前にもちょっと書いたが、あれはあれで手堅くまとめられた佳作だったと、今回あらためておもった。

客席には、けっこう若いひとたちの姿も目についた。かれら彼女たちが、古いポピュラー音楽をかれらなりに発見しているということであれば、なかなかすばらしいことである。

映画『バンド・ワゴン』

市川のTOHOシネマズで上映、というので出かけていった。DVDなら自宅で何度でも観られるけれど、大きなスクリーンで観られる機会は、この先何回あるかわからないし。

作品については、もうあれこれ言うまでもない。名作である。そうに決まっている。

前年に製作された『雨に唄えば』と並んで、ハリウッド・ミュージカル映画の最高峰である。トーキーの幕開け時代を舞台にした『雨に唄えば』がより明朗で若々しいのだとしたら、こちらは、30年代に始まるミュージカル映画の全盛期を括弧でくくった設定で、ぐっと渋い。

ぼくが最初にこの作品を観たのは高校生か浪人のころだったとおもうが、すでに知識としては、そうしたことを知っていた。知ってはいたが、当時はまだ古い作品を気軽に観られる状況になかったので、なかなか実作品に触れられずにいた。たまたまリバイバルブームが到来し、上映されると知ったときは、うれしかったものである。

ところが、じっさいに作品を観ると、とまどってしまった。たしかにすばらしいとはおもうものの、いまひとつピンとこなかった。いま思えば、まだ尻の青いガキだったのだ。このフィルムは、人生の山も谷も味わい、かつ残された時間に限りがあることを知っている大人の作品なのである。ちなみに、アステアはこのとき54歳である。

ハリウッドのミュージカル映画を考えるときにこの作品が重要なのは、これが名作であり最高峰であるという理由だけに拠るのではない。これを境に、ミュージカル映画というジャンルは凋落し、大きく変質して、ついにはジャンルそのものがほぼ消滅する。その分水嶺に、この作品は位置づけられるからである。

いいかえれば、「1953年のトニー・ハンター」を演じることで、アステアはみずから築いた黄金時代をみずから幕引きするのである。フィルムの隅々に、なんともいえない寂しさが漂っている。

細かいことをいくつか。今回の上映はニュープリントだという。音声の細かいところがよく再生されていて、いままで気づかなかった息づかいや、背後のほうで小さく響く声や音楽などがよく聞こえた。ジャック・ブキャナンのズレ方がいい感じである。とくに前半はこのひとでもっているところがある。

東宝にかぎらず、名画座的な上映をもっと拡げてもらえるとうれしい。

映画『バッタ君町に行く』

アニメーション映画史上の傑作とされるフライシャー兄弟の作品である。今回はニュープリントで劇場公開とのことだが、ぼくが観るのは初めてだ。場所は最近ヒューマントラストシネマと名を変えた映画館、観客は7人だった。

まだ長編アニメーション映画がめずらしかった時代(1941年公開)の作品だ。全篇で徹底して線を動かすことに全身を集中させている(日本の「アニメ」の大半は(全部ではない)、もうこのことを忘れてしまっている)。虫たちのわらわらと蠢くさまや、ナイトクラブで何度もダンスを踊る場面、とりわけ感電のシークエンスなどにそれが顕著にあらわれている。ちなみにある時代までのアメリカのアニメーションにミュージカルやスラップスティックの場面が付きものなのは、映画の機械性という問題に直接かかわっていると、ぼくは考えている。

動きの積み重ねとともに、物語上のエピソードは、そのひとつひとつが厚くていねいに描かれる。その一方で、プロットはいたってシンプルだ。いまも昔も、こうした戦略がアメリカのアニメーション映画の伝統として、広い観客に訴える娯楽作品の要諦であることを示している。もっともこの作品の評価が定まるのは後年のことで、初公開時の1941年12月には観客の入りが悪く打ち切りとなっている。

物語は、題名に暗示されているようにフランク・キャプラ的なニュアンスが込められていると理解することができる。工業化された資本主義社会を批判しつつ、しかし文明それ自体と人間性の可能性に無条件の信頼をおいているのだ。たとえばこの物語は郵便制度というシステムの十全な機能を前提にしているが、それを具体的に担保しているのは実際に登場する郵便配達夫が内面化し実践する職業倫理である。

したがって、物語の終盤において天空めざして登ってゆく虫たちのふるまいには明らかに肯定的な色が与えられており、ハッピーエンディングを志向してつくられていると考えてよい。ところが、21世紀の観客の目には、これがえらくアイロニカルに映る。かれらがたどり着いた地点がかれらにとって楽園であるようにはとうていおもわれない。そしてかれらもまた、かれらをそこへ追いやることになった人間や文明の暴力性をいつしか発揮しうる立場になりうることを含意しているかのように読めてしまうのである。

その意味で、たんに「傑作」というラベルを押して理解した気になっていれば済むような作品ではなく、今日的な観点からもより深く考えさせられる奥行きをもった作品だというべきであろう。

ホーギー・カーマイケルとリー・ハーラインの音楽が抜群によい。

今回の公開をしかけたのはスタジオジブリである。ここは宮崎作品や関連キャラクター商品などで稼ぐ一方で、アニメーション映画の歴史的名作の上映・普及に力を入れているようだ。パンフレットのつくりも、贅沢なものではないが、的を射たつくりであり、しゃれている。

なおパンフレットその他の資料では原題 Mr. Bug Goes to Town とされているのだが、今回ぼくが観たかぎり、本編のタイトルバックでは、主人公の名前をそのまま採って Hoppity Goes to Town と記載されていた、ような気がする。

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