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人文書

奇妙な葉書

これもひと月以上前の話なのだが、奇妙な葉書が届いた。

差出人の名前はない。残り物なのだろうか、年賀状にパソコンで印刷してある。宛名はぼくの名前になっているものの、裏をかして文面をみると、ぼくの所属する某学会──学術学会です、念のため──の「会員 各位」と記してある。同じ文面の葉書が学会の会員全員に送られているのだろうか。

文面も奇妙である。「当方は」と発信者のことを示すものと推測される言葉で始められている。「当方は」最近刊行されたというある本の書名があげられて、その著者であるのだという。そして、つぎのような誤りをしたのだといって、詫びている。

この度、同著の記述において、実際には述べられていない事柄を、誤って引用してしまうと共に、著者のお名前の字を誤記、また、出版社に対しましては、実際には刊行されていない書籍名の記載をしてしまいました。

まことに奇妙な内容である。意味がよくわからず、何度も読みかえしてしまった。それでもいまいちよくわからない。

ここで誤りとされている内容とは、にわかに信じがたいような誤りである。著者名の誤記なら(あってはならぬこととはいえ)いざしらず、「実際には述べられていない事柄」をどう誤れば引用できるのか、「実際には刊行されていない書籍名」をどう誤れば記載できるのか。

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正文館書店

東片端にある正文館書店。名古屋に帰省すると必ず立ち寄る。

似た名前のちくさ正文館もいい書店だが、ぼくがよく行くのは東片端にある正文館のほうだ。一時間から二時間ほど滞在してゆっくり棚をみてまわり、気に入った本をひとかかえ買って、古いお屋敷が残る街を歩いて帰る。高校や予備校時代よりも、むしろ大人になってから、とくに子どもが生まれてからのほうがお世話になっている感がある。

ぼくにとって正文館は、たぶん、あらゆる新刊書店のなかでいちばん好きな書店のひとつだ。

もっと個性的な品揃えをしている書店は、東京はいうにおよばず、名古屋にだって存在している。インテリ好みの書店なら神保町へ行けばいい。正文館は、そうした意味でこれといった「個性」があるというタイプの書店ではない。品揃えもまあ普通だし、売り場面積も広くはない。でもぼくがこの書店を好ましいとおもうのは、いまはもうほとんど感得することのできないある気分がいまだ息づいているかに感じられるからである。

そのことは、たとえば文庫の棚が管理のしやすい版元別ではなく、著者別にならべられていたり、ひじょうに充実した児童書コーナーにみてとれるが、それらが直接好ましさの要因であるというわけではない。具体的にどこかどうというより、やはりこの店全体を浸している雰囲気みたいなものが重要なのだ。

とはいえ今回行ってみたら、以前は2階の大半を占めていた人文書のコーナーが大幅に縮小されて奥に押し込められ、手前の大部分は旅行ガイドブックと学参がならべられていた。昨今の出版市場の動向からして、どこの書店も経営的には楽ではないだろうから、残念だけれど、仕方ないことなのかもしれない。

それでも全体としてみれば、店の雰囲気は損なわれていなかった。名古屋へ行くたびにこの書店に寄るというささやかな愉しみを今回も味わうことができ、うれしかった。


隠喩としての人文系学術書

このところ、書評やらインタビューやら短い原稿やら、こまごました仕事をかかえている。発表されるたびに当ブログにてお知らせしようとおもうのだが、毎日ドタバタ過ごしているうちに、うっかり機会を逸してしまう。初めのうちは、こんなことではイカンと焦らないでもなかった。いまは「まあ、それならそれでよい」と気楽に考えることにしている。

そのひとつ、国立国会図書館が発行している『カレント・アウェアネス』という雑誌に「隠喩としての人文系学術書」を寄稿した。冊子のほうは、先ほどゲラを戻したから刊行までもう数日かかるとおもうのだが、ウェブ版のほうは先行して公開されている(こちらからどうぞ)。

2008年も半分過ぎた。年初にたてた計画の何割も達成できていない。ただ、そのための準備は、ある程度は積みあげることができたかもしれない。いまのぼくの課題は、世間で一般にいわれていることとは逆のことである。いかにして外部からの情報を遮断し、じぶんのための時間をもち、そこにじぶん自身を投じ、その状態を一定期間維持することができるか。

この間の大きな変化はもうひとつある。お酒を飲む機会を格段に減らしたのだ。いまじゃ原則として週2回しか飲まない。ふだん飲まないから、飲んでもすぐにまわる。20代のころに逆戻りしたみたいである。


映画『ビルマ、パゴダの影で』

昨日は、人文書の書店員さんたちの勉強会で話をさせていただいた。「ポスト人文書空間において「人文書」はいかに可能か」と題して、いま書こうとしている論文の内容を、さわりのところだけなのだけれど、お話しした。参加者はみなひじょうに熱心で、ぼく自身もいろいろと教えられた。貴重な機会だった。

公開されたばかりのFirefox 3.0をさっそくダウンロード。むちゃくちゃ速い。でもやっぱり、メインでつかうのは当面Safariのほうだろう。

さて、しばらく前に観たドキュメンタリー映画の評である。『ビルマ、パゴダの影で』(アイリーヌ・マーティ監督)。監督はスイス人ドキュメンタリストで、観光PR番組の制作と偽って入国し、案内兼監視役の公務員の目を逃れて撮影を敢行したものだという。ミャンマー(というのは軍事政権のつけた国名らしいのだが)で軍事政権に圧迫される少数民族を中心に取材した作品だ。

軍事政権そのものの圧政を直接描くのではない。ミャンマー国内の多民族状況のなかで、主流派のビルマ民族が、それ以外の少数民族を迫害しているという構図の下に、その少数民族たちの状況を描こうとしている。

政府軍によって村を追われた少数民族のひとびとが難民キャンプにのがれてくる。かれらの口から、軍隊が村に入り、無茶な徴用で労働力を奪い、家屋や備蓄食糧へ放火をくりかえして、少数民族を徹底的に迫害するさまが語られる。だれもが、ぽつりぽつりと、ちぎっては投げるようにして言葉を吐きだす。

難民キャンプを守っているのは、少数民族による武装した反政府軍だ。かれらは密林のなかで政府軍とたたかっている。反政府武装組織はいくつも存在するようだが(それはそうだろう)、それらは連帯しているとナレーションが語る。

将来の希望は? とインタビュアーが難民キャンプに暮らす子どもたち──多くは戦闘で身寄りをなくしている──に訊ねる。子どもたちの答えは、みな一様だ。少女は、故郷の村で教師になりたいという。少年は反政府組織の兵士になりたいという。両親を殺したやつらを撃ちたいのだという。

声高に告発するのではないが、作品の視点は基本的に少数民族の側に寄り添っている。それゆえか、軍事政権対少数民族という図式を知らず知らずに強調することになる。背景事情を詳しく把握していないので、的外れかもしれないが、おそらくは少数民族側とて一枚岩であるのではなく、いくつもの切断線が走り、相互に思惑が錯綜しているにちがいなかろう。であるのなら本作品は、貴重な報告であることをじゅうぶん認めたうえで、同時に作品として見るならば、全体に少々図式的で平板なのが残念だといわねばなるまい。


大学図書館

学長選挙の翌日は京都へ日帰り。大学図書館にかんする勉強会によばれ、話をするためである。

集まってくださったのは、京都近辺の大学図書館ではたらくライブラリアンたち。「ポスト人文書時代において、人文系の学術出版はいかに可能か──「出版」再定義への試み」と題して、ここ数年試行錯誤しつつ考えてきたことをお話させてもらった。

ぼくの話は、おおむね以下のとおり。

人文書空間が崩壊し、人文書の変容が迫られている現実は、同時に人文的な知の様態そのものの変容を意味している。だから、ポスト人文書時代において新たな文脈で人文書の再構築をめざすことは、ポスト・グーテンベルク銀河系──いまのところそれはGoogle=YouTube的なものとしてイメージされているわけだが──における人文的な知のあり方を構想することに直接つながっている。ところが、この手の話は従来もっぱら産業論か、そうでなければ技術論かのどちらかの言説に極端に偏っていた。こうした論点はたしかに一定の重要性はあるが、しばしば現実の出版産業や情報流通技術を前提してその内側だけで語る、窮屈で展望の見出しにくい議論に陥りがちであった。したがって、もっと広く多様な幅をもったなかから出版を捉えなしてみることが必要だろう。別言すれば、さまざまな出版 publishingがありうるという視座を獲得するということだ。そのような形で出版の再定義を試みるとしたら、そこにいたるための道筋のひとつは、身体や実践の水準に見出せるはずだ。それが、ワークショップという手法を重視する理由でもある。未来がどうなるかは、予測するというよりも、みずからがビジョンを見出して、そこに漸進していこうとすることではあるまいか。

順を追って話していたらついつい長くなり、うっかり120分もしゃべってしまった。最初は90分といわれていたのだけれど。ごめんなさい。

この集まりでは「知の変容と大学図書館」というようなテーマで連続の勉強会をひらいてきたという。ぼくはその五回目で最終回だった。印象的だったのは、参加者の多くがまだ若手といってよい年代であったことだ。若い大学図書館員たちは、出版のみならず知や大学制度の変容──大学はみずからじぶんの首を絞めているようなところがある──のなかで、ただでさえ制約の多い大学図書館にどんな未来を見出せばいいのか、模索しているらしい。

──というようなこの集まりの性格を知ったのは当日会場に着いてからのことだった。だから、切実で鋭い問題意識をもつ図書館員たちがぼくの拙い話を熱心に聞いてくださったのは、予想外のよろこびだった。と同時に、ぼく自身が大いに刺激をうけ、教えられることが多かった。

発表の最後に、大学図書館への期待として、こんなことを述べた。ライブラリアンの仕事のなかに広い意味でいう編集的な仕事があり、大学図書館の役割のなかには、広い意味でいう出版的な要素もあるはずだ(むろんその前提には、編集も出版も、それ自身のなかに多様性をかかえていると理解すべきだという考え方がある)。そんなふうに発想を少し変えてみると、大学図書館は、大学が内部と外部双方の他者にたいしてみずからを開いていくための契機になりうるかもしれない。すると参加者のひとりから、こんな提案がなされた。人文書の読み方を教授できるようなワークショップができないか。なるほど、それはアリかも。

「未来を予言する最良の方法は、それを発明することである」とは、アラン・ケイの至言である。それは、なにもテクノロジーに限った話ではない。


『論座』3月号は「人文書」特集

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『論座』3月号は特集「「人文書」の復興を!」である。特集タイトルの名づけ方のセンスや、記事の内容については、立場によって受け止め方はさまざまだろう。とはいえ、ともかくも総合雑誌が「人文書」にかんして、こんなスタンスで取り上げること自体は、おそらく初めてのことであり、評価されるべきだとおもう。ぼくも寄稿している。ただし、それがこんなことを言う理由なのではありません。念のため。


晶文社の「再出発」

友人に教えられた。晶文社から2月15日付けで同社の「再出発」──さしあたっては、創業社長である中村さんが亡くなり、新しい体制へと引き継がれた、ということだろう──にかんするステートメントが発表されている。↓
http://www.shobunsha.co.jp/

今回の発表の意義は小さくない。二点あげる。
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