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機械と身体の縫合域

桜色の「Scripta」など

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藤井仁子さんから編著『入門・現代ハリウッド映画講義』(人文書院)を送っていただいた。まだ読みはじめたばかりなのだが、ガッツリ系の書名にふさわしい、しっかりした教科書である。教科書といっても執筆者はみな若く、じっさい内容も、できあがった体系の拡張ないし読み直しであって、なかなか野心的である。ご恵贈ありがとうございました。

それから、じぶんの連載(「機械と身体の縫合域」)の掲載誌の紹介でなんだが、『Scripta』7号が刊行されている。紀伊國屋書店各店舗の店頭で無料で手にいられるはず。

今回の小論は「日常と反復──庄野潤三、あるいは山の上の老夫婦の「モダン・タイムス」」。庄野潤三のいわゆる「晩年シリーズ」を導きの糸として、日常生活と行為の反復について考察した。「庄野潤三ファン掲示板」という読者サイトでも紹介してくださっている(ぼくもときどき読み、小論執筆時にも参考にさせていただいた。手入れの行き届いた公園のような掲示板である。こちら)。

庄野作品はずいぶん読んできたが、むろん小論は文学研究や文芸批評を目的としたものではない。かれのテクストから考えされられるのは、むしろ生活するとはどういうことかという点であり、日常生活をメディア論の焦点として捉えなおすというぼくの関心の根幹にかかわっている。

といっていたら、前回の連載を読んだといって若い建築家と都市社会学者が来訪(五十嵐太郎さんのご示唆もあったようだ)。スーパーマーケットやタワーマンションは、日常生活に深く浸透していながら、建築学では正面から論じられることがほとんどない。かれらは、そうした類の建築や空間について考えていきたいという。なかなか目のつけどころがよい。建築家が介在すれば、スーパーマーケットの空間の質をもっとあげられるのではないでしょうか。うーん、スーパーマーケットというしかけは、そもそも建築家のような「主体」を排除したところに成立してるわけですからね。──夏前刊行の建築学会誌『建築雑誌』にインタビューが掲載される予定。

話はさらに逸れてゆく。十数年前、初めて『建築雑誌』という書名を知ったときは絶句した。すばらしすぎる。端的にいう、問答無用といった趣である。のちに伝統的な学会誌のひとつのネーミング・パターンなのだとわかった。『印刷雑誌』はいまも刊行されているし、かつては『土木雑誌』もあった。知的世界の分節の仕方と権威のありどころが、良くも悪くもハッキリしていた時代の産物であろう。いま新たにこれを真似することのできる分野があるとしたら、どこだろう?


秋のスクリプタ

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『Scripta』第5号が届いた。創刊一周年である。パプリカのような、鮮やかな黄橙色の表紙。黄葉のイメージなのかしら? 藤崎編集長によれば、創刊二年目は、カラフルな路線で攻めてみたいとのこと。紀伊國屋書店各店舗で配付中だ(無料)。

ぼくの連載「機械と身体の縫合域」は「買物する身体」がテーマである。川本三郎さんの「バザール都市=東京」をヒントに、これに「スーパーマーケット都市=名古屋」(=わが故郷なのだが:笑)をぶつけ、「買物」という日常的実践における身体性のあり方について論じている。

明日から、秋学期開始である。


夏の Scripta

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『Scripta』第4号が届いた。今号は明るい青色の表紙だ。

ぼくの連載「機械と身体の縫合域」では、今回は島田ゆかさんの絵本『バムとケロのおかいもの』の助けを借りて、「買い物」というフィールドを探索している。これはさらに次号へとつづく予定だ。同誌は紀伊國屋書店の店頭で無料で配られている。機会があればぜひ手にとってみてください。

同号には都築響一さんのエッセイも掲載されている。自費出版についてちらりと触れておられ、興味深い。面白い企画であればあるほど出してくれる出版社が見つからず、けっきょくじぶんで出版社をつくって本を出した、という。形式上はどうあれ、実質的に自費出版であることに変わりない。

出版業界のひとびともしばしば誤解しているのだが、自費出版は別段、出版産業のそれよりも劣る「シロウト出版」を意味するのではない。そこから生まれてくるものは、たしかに玉石混淆であるかもしれないが、それをいうなら出版産業の生産物も同様だ。歴史的に見れば明らかなように、自費出版とは元来、すべてのリスクを著者が負う代わりに、とにかくなにをやっても誰からも文句をいわれないという自由でアナーキーな場のことをいう。読み手の側からいえば、稀とはいえ、予想もしない形で想像域外の「玉」に出会ってしまえることが、自費出版のダイナミズムなのだ。その他の膨大な「石」にしても、当事者やその周辺にとってみれば、かけがえのない「玉」であるに違いない。

だが、ある種の出版社から見れば、自費出版はおいしい商売だ。なにしろ、本来であれば山ほど背負い込まなければならないはずのリスクは、一切合切すべて書き手が負ってくれる。自費出版の出版社が注力するのは、むしろその書き手がせいぜい一時「作家気分」に浸れるようなサービスであるだろう。そうした態度は、出版者や編集者のものというより、むしろホスピタリティ溢れるサービス産業従事者のそれに近い。自費出版をますます煽る出版社が少なくないのは、当然それだけの理由がある。

──というようなことを、先日、日経新聞の取材で話していたところだった。「自費出版」に目をつけるとは、記者の方の視点はさすがに鋭い。「出版学」ではまったく視野からこぼれ落ちているようだが、ぼくが出版をメディア論的に研究しようという若い大学院生だったなら、まず最初に考えるであろうテーマのひとつである。(なおこのときの記事は、6月18日(月)の日経夕刊文化面に掲載された。)


地獄めぐりの一日

ぼくの専門はメディア論である。具体的な研究の局面として、いまのところ出版・コミュニティ・ミュージカルという三つが柱だ。昨日は、この三つを一日で経めぐることになった。たとえていえば、「地獄めぐり」の一日である。ダンテの『神曲』とはとてもいかない。温泉地によくあるそれ、というのが相応しかろう。

まずは出版学会の大会(大正大学)。研究発表の司会を担当したのち、いくつかの発表を聞く。興味深かった発表は、いずれも歴史を扱ったものだった。現在の日本の出版研究のなかでは、歴史の研究がいちばんやりやすく、じっさい実績も積みあげられつつあるようにおもう。

他方で、出版産業を扱った研究も相対的に少なくはない。だがしばしば、業界団体やシンクタンクなんかが出すレポートと区別がつかなかったりする。なぜこんなことになるかといえば、出版にかんする理論的枠組みがないからだ。ほとんど皆無といっていい。唯一の例外は箕輪成男先生のものだが、これは出版産業の枠組みである。あちこちで書いていることだが、出版産業と出版はまったく次元が異なる。一般に素朴におもわれているように出版産業のなかに出版があるのではない。出版のごく一部として出版産業がある。だからいま必要なのは、むしろ出版の理論のほうだ。そのことをテーマに、博士論文を書いている。相手が巨大すぎて、もうまるで力及ばないことは先刻承知なのだけれど。

ついで、コミュニティ。移動の多い一日だったのだが、その間に原武史さんの新著『滝山コミューン一九七四』(講談社)を読んだ。昨冬『群像』に掲載されて話題になった作品だ。時代はオイルショック直後。舞台は東京都下・東久留米のある小学校。著者が「滝山コミューン」と名づける学校・児童・保護者からなるこの地域共同体は、学校を「みんなのもの」にしようという民主主義の旗印を掲げる。しかし、多様な個による自由な討議というハーバーマス的な公共圏を体現するコミュニティを標榜しながら、それはたちまちにして、「みんな」のために「正しい」価値観を貫徹しようとする全体主義へと変質し、異質な者を排除する管理統制社会と化していく。その過程が仔細に描かれる。とくに、主人公の児童「私」に、別の児童たちが「総括」を迫る場面には、胸がつぶされる。

コミュニティは、メディア論にとってきわめて重要な概念である。だが、この言葉はどうしても同質化された集団という理解をともなってしまう。だが実際には、実践コミュニティ論でいわれるような「周縁から中心へ」という主流ルートなのではなく、どうしても中心へ入っていけない状態がしばしば生じる。大事なのは、それをいかに同質化させるかということではなく、異質な状態をそのままでどう肯定できるかということだ。同質化を暗黙に肯定しないコミュニティはいかにして可能か。この容易ではない問いもまた、博論のなかで扱わなければならない課題である。原さんのこの著作は、そこにひとつの示唆を与えてくれるような気がする。

本書の主人公「私」とは、むろん著者原武史さん自身。つまりここで題材として扱われているのは、著者自身の小学校時代の経験であり、一個人の経験を徹底して穿っていき、その先で戦後思想史に連絡しようという試みである。だからこの作品では、学者にとって「禁じ手」である自伝的スタイルを、あえて──そして用意周到に──採用している。そしてこの方法は、この本の要であると同時にアキレス腱でもあり、両者の拮抗の微妙な振幅が、なんともいえない迫力と魅力の源泉をなしている。

ところで、そもそも原さんがこのスタイルの採用に踏みきった直接の要因は、四方田犬彦さんの『ハイスクール1968』に刺激をうけたからではないかと推測する。しかも帯の惹句は高橋源一郎さんだ。なんだか明学のスター三教授そろいぶみ、という趣である。

最後はミュージカルだ。夕方から成城大学へ移動して、映像学会の映像テクスト研究会に(遅れて)参加した。木村建哉さん(成城)と長谷正人さん(早稲田)が、それぞれ『バンド・ワゴン』(1953年)をとりあげて発表するという趣向である。ぼくが到着したときは木村さんの発表の終わりがけだったが、レジメは懇切丁寧・用意周到という言葉を具現化したもので、ひじょうに勉強になった。

長谷さんの発表は、ミュージカルを「生きる歓び」と見、『バンド・ワゴン』という映画をひとつの契機として、むしろ映画という仕掛けの本源に触れようとしたものだ。じつに長谷さんらしいといわねばなるまい。さらに質疑応答のなかで、自己言及性、後半における「観客」の不在(個人的にはこれは、本作品の題名およびポスターに描かれる “Get Aboard” の語と結びつけて考えるべきだとおもう)、ノワールとの関係など、興味深い論点が多数示された。

個人的にとく興味をもったのは、物語からダンス・シーンへの移行過程への着目である。これは重要だ。1930-40年代のハリウッド・ミュージカルがこの点に無頓着で、そうであるがゆえに「自然」であったものが、第二次世界大戦後にはその「自然」が不自然であると感じられはじめるようになる。1953年とは、「自然」から不自然への掉尾にあたるだろう。それはわたしたちの日常の身ごなしに似ている。ふだんなにげなく実践している身ごなしが、あるときふと不自然におもわれてくる。いったん身ごなしを意識しはじめたら最後、それまでの身ごなしの「自然」は永遠に失われ、二度と戻ってはこない。だから『バンド・ワゴン』は、ちょうど林間合宿の最後の晩のキャンプファイヤーのように、ハリウッド・ミュージカルが自身をふり返って織りなすという意味で、集大成なのだ。以後ハリウッド的なミュージカルは今日にいたるまで、「不自然」となってしまったその「自然」にいかにして「自然」を取り戻すかに腐心することになり、いずれの試みにおいても失敗を重ねつづけることになる。

さて、長谷さんの提示された枠組みは、同時にぼくの考えているミュージカル論とずいぶん重なるところがあった。その意味でも大いにうれしく、また刺激をうけた。ひとつだけ論点をあげれば、ミュージカルとは、たんなる映画の一ジャンルではない、ということだ(ぼくも前に『ユリイカ』に少し書いた)。むしろ日常の身ぶりや身ごなしからの連続として考えていくべきなのだ。ふつうに読むだけでは気づかないかもしれないが、紀伊國屋書店の雑誌『Scripta』に連載している「機械と身体の縫合域」は、じつにそのような観点から、「日常のなかに」いかにして「少しだけミュージカルがある」のかを探索し、考察する試みである。

明日の授業では、ぼくも少しだけ、学生たちに『バンド・ワゴン』を見せよう。


『Scripta』第 3 号

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『Scripta』第 3 号を送っていただいた。毎号表紙の色が違う。今回はごらんのとおり渋い赤。

拙稿コテコテメディア論「機械と身体の縫合域」も連載 3 回目だ。今回は、日常生活のなかでさまざまに経験する「流されること」についての考察である。具体的には、流れるプールとターミナル駅をとりあげてみたが、同様の例は枚挙にいとまがない。流れ周遊するという運動は、近代社会の住人が好むと好まざるとにかかわらず身につけなければならない振る舞いの基本型のひとつであるようだ。

同誌連載の内堀弘さん「予感の本棚──戦前の紀伊國屋書店」からは毎回多くを教えられる。今号紹介されているのは、1930年代の紀伊國屋書店に設けられていた喫茶室のことだ。

人文書空間が成立していた時期、書店はたんに本を販売する店ではなく、それ以上の何かだった。「何か」の中身はいろいろあろうが、そのひとつに「サロン」があった。サロンとは、そこでひとびとが出会ったり語らったりして長時間を過ごし、うち解けることのできる場所のことである。現在の書店からはサロン機能はほぼ失われているが、それでも大型書店や独自性を打ちだす小書店にはしばしば喫茶スペースが併設されている。これは、そうした時代の名残なのだといえる。


雑誌『Scripta』創刊号に寄稿

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紀伊國屋書店はフシギである。全国規模でナショナル・チェーンを展開する巨大書店であり、若手演劇人への支援を長くつづけ、新宿という地域の文化に多大の貢献をしてきた。インターネットでは、オンライン書店だけでなく、これを「書評空間」という本の紹介サイトと組みあわせて運営している(ぼくも何本か寄稿しています)。

紀伊國屋書店は、同時にまた版元──つまり出版社でもある。版元機能を担当している紀伊國屋の出版部が、新しく広報誌を創刊した。『Scripta(スクリプタ)』という。創刊号が今日、届いた。さっそく表紙を撮影。それにしても、わが家のデジカメ(IXY300)は、年季モノのせいか、腕の問題なのか、なかなかうまくピントがあってくれないなあ……(追記:9月7日、画像差し替え)。

ここでぼくは、「機械と身体の縫合域」と題して、初めて連載をもたせてもらうことになった。第1回のテーマは「車窓は踊る」。これまで書いてきた原稿は、わりあい「出版」のメディア論という性格のものが多かったのだが、今回はもう、コテコテのメディア論である。正直、よく載せてくれたものだ。この連載では、「踊る」とか「うたう」とかというように、動詞をモチーフとして、現代社会における「メディア」の様態を析出してみたい。


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