雑誌『室内』が、発売中の2006年3月号をもって「一旦、休刊」する。休刊といえば、ふつうは一休みしてまた出直すのだとおもうだろう。休刊と称して刊行を停止した雑誌は数知れないが、のちに文字どおり復刊を果たしたものはいくつもない。事実上の終刊である。この最終特別号に寄せられた現在の編集兼発行人山本伊吾氏による一文に、こうある。「雑誌にも寿命はあります 見事に天寿を全うした大往生とお祝いください」。これで復刊したらゾンビである。つぎがあるとすれば、輪廻転生で生まれ変わるほかあるまい。
『室内』というタイトルはいかにも渋かったが、1955年に創刊されたときは『木工界』といった。創刊者は、稀代のコラムニスト山本夏彦である。山本は自身のコラムのなかで、筆一本では喰えないための身すぎ世すぎとして始めたのが出版業だとうそぶいていた。実際によくそう口にしてもいたようだ。
「インテリアの情報誌」を謳いながら、ベタな実務家向け雑誌にも、スカした建築雑誌にもけっして転ばなかった。そのことは、世間との間合いをはかることに絶妙の距離感を発揮した山本夏彦の態度姿勢と無関係ではなかっただろう。そもそも、当の『室内』それ自身が、この惹句を端から信じていないようすがありありと見てとれた。
『室内』の身上をひと言でいえば、ひとつひとつの編集の仕事が見事にきっちりしていながら、対象との距離の取り方がなんともいえず絶妙という、そのバランス感覚である。それは、日本の出版界ではほとんどありえないような離れ業だった。そしてそれを可能にしていたのは、都会人的な、良い意味で意地の悪さであり、それがこの雑誌固有の「癖」をなしていた。その「癖」はこの雑誌に、あまた溢れる雑誌群とは画然と異なるはっきりした相貌を与え、それがこの小さな雑誌の底知れぬ魅力の源泉であった。『室内』が、建築やインテリア関係者ばかりか出版業界内でも一目を置かれるゆえんでもあった。しかしこの「癖」は、『室内』の経絡をなしていたと同時に、限界でもあった。そういうことだろう。
『室内』2005年2月号に、ぼくの家が紹介されている。趙海光さんに、本棚だらけの家を設計してもらい、中野工務店の職人さんたちが建てくださった。撮影は藤塚光政さんだった。建物の写真はもちろん、子どもたちの写真もたくさん撮っていかれた。掲載号が届いた。藤塚さんの写真のできばえは圧巻で、レイアウトや短い文章の手堅さに感心した。それがぼくの『室内』の内側を体験したすべてだった。ささやかだが、幸福だった。
『室内』休刊。次号を待つたのしみは失われた。つぎは生まれ変わるのかもしれないが、その前に、気が変わって化けて出てくるかもしれない。どちらでもかまわないが、それを待つたのしみが残された。いかにも、といえるのかもしれない。