映画『プロデューサーズ』

3回映画館へ行き4回観た。できれば朝から晩まで一カ月くらいずっと観ていたい。

ミュージカルが好きなことでは人後に落ちないつもりのぼくのような人間にとって、この映画『プロデューサーズ』を観ている時間は、誰になんといわれようとひたすら幸福だった。なにしろスクリーンでミュージカルを観られる機会はほとんど失われてしまっている。そのうえ楽曲もダンスも、1961年以前の、アステア&ロジャースから40-50年代のMGM時代までの、往年のハリウッド・ミュージカル・コメディの気分に十分意識的であり、それをよく受け継いでいるときている。ふつうに観ても、濃いひとたちがつぎつぎと登場してはバカをくりひろげるという水準で面白いとおもうだろう。それはそれで良いとおもうが、もしミュージカルを観た経験がある程度あれば、さらに立体的に愉しめるはずである。

オリジナルの映画(1968年)→ブロードウェイ・ミュージカル化して大ヒット(2001年)→ミュージカル版を映画化(2005年)という流れをたどったこの作品の成立の背景などは、あちこちに書かれているのでくり返さない。残念ながらぼくはブロードウェイ版を観ていないので(日本公演もあったし、日本版もあったが)、これと比較する愉しみはもつことができない。さいわい高平哲郎さんの翻訳された舞台版シナリオ(メル・ブルックス、トム・ミーハン『プロデューサーズ』IBCパブリシング、2005年)が出版されている。これを頼りに推し量ってみることが、少しはできる。どうやら、舞台版にかなり忠実なようだ。あらすじは68年版の映画どおりであり、楽曲はほぼ舞台版と同じ(当然一部入れ替えがある)。楽曲のシーンの一部にロケ撮影のショットを組み込んでいたり(残念ながらさほど成功していない)、ガールズやボーイズがバズビー・バークレーふうにやたら大人数だったりするあたりが、映画向きに拡張されたところだろう。監督・振付のスーザン・ストローマンは、ブロードウェイで『クレージー・フォー・ユー』(1992年)を演出したひとだ。ガーシュインの曲にタップダンスを全面的にフィーチャーしたこのミュージカルは、一時ロンドンの後塵を拝していたブロードウェイ・ミュージカルが再浮上していくきっかけとなった作品として知られている。ぼくは劇団四季の日本語版を観て夢中になり、その後ロンドンまで観に行ったっけ。

映画『プロデューサーズ』に話を戻そう。ストーリーだけを追うのであれば、明らかに数カ所で無理が露呈している。だがミュージカルをストーリーだけから語っても仕方ない。この作品のよい点は第一に楽曲である。序曲からフィナーレまで、どの曲もよくできていて、しかもストーリーとうまく絡みあっている。 “We can do it” で見せるタクシーのなかでのネイサン・レインとマシュー・ブロデリックの掛け合いなど、なかなか見事なものだ。

いかにもミュンヘンあたりの酒場でジョッキ片手にドイツ人が肩を組んで歌っていそうな “Der guten tag hop-clop,” アーヴィング・バーリンの「チーク・トゥ・チーク」みたいな “That face”、バックステージものにふさわしい “You never say good luck on opening night” など、すべての楽曲に共通する特徴は、どれも以前に聴いたことのあるような気にさせることだ。往年のミュージカルを意識しているからであるだろうし、別の意味では枠組みをなぞっているだけでオリジナリティに欠け、心地よいけどすぐ忘れてしまうということもできる。ただし黄金期だって実状は大差なかった。たとえば『バンド・ワゴン』の「ザッツ・エンターテインメント」は、「ショウほど素敵な商売はない」みたいな曲がほしいというプロデューサーの意向で、わずか30分ほどでつくられたという(これはフレッド・アステアの伝記にでてくる話)。それでも残る曲は残るのである。そして定石どおり、この二曲にそっくりの曲が『プロデューサーズ』にもある。 “There’s nothing like a show on broadway” である。これら楽曲は詞も曲もすべてメル・ブルックスの手によるもの。かれがミュージカル好きだとは知っていたが、ちょっと驚きだ。原作も脚本も、そしてもちろんプロデュースもメル・ブルックスだから、ほとんどオーソン・ウエルズではないか。

ミュージカル・コメディといえば、なにをおいても重要なのがタップダンスである。タップの刻む乾いた音とリズムは作品の性格を決定づける。文芸ミュージカルにはタップがそぐわず、20世紀末葉にタップが一時衰退することの一因でもあった。全編これでもかというくらいにギャグの炸裂するこの作品では、タップダンスが全面的にフィーチャーされているかというと、意外に多くはない。基本的には三箇所である。

まずは会計監査会社の監獄のようなオフィスで冴えない会計士のブロデリックが空想にひたって歌い踊る “I wanna be a producer” (ただしブロデリック自身はタップを踏んでいないように見える)。ここでは、とくに小道具のつかい方にアイデアがある。手回し計算機をまわす音でリズムを刻み、オフィスのキャビネットは、せり出して大階段になり、フィニッシュで再度登場するガールズが計算機のパンチカードを紙テープのように投げる。

小道具といえば、ネイサン・レインが、出資者のおばあちゃんたちを口説く “Along came Bialy” である。タップシューズではなく、おばあちゃんガールズが歩行器でタップのリズムを刻む。

タップの最大の見せ場は、「史上最悪のミュージカル」である「春の日のヒトラー」の場面で、 “Springtime for Hitler” と “Heil myself” の二曲。ナチの軍服を着たボーイズとガールズが、やたら大人数でタップを踏み、ハーケン・クロイツ型のフォーメーションを鏡に映して見せ、カメラは真上から映しもする。もろ1930年代バズビー・バークレー。それにしても、ここでの「ナチ礼賛」のダンスは、鉤十字を星条旗に替えれば、ほとんど『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』(1942年)である。先日授業の準備のためにDVDを見なおしていて気がついた。

ネイサン・レインは、『恋の骨折り損』(1999年)でもひとりで映画を喰っていたが、ここでも全開である。このひとは根はヴォードヴィリアンなのだろうか、踊りも歌も物真似も、なんでも一通りこなせる多芸ぶりであり、この作品では全編で細かい芸を見せてくれる。ソロの見どころは留置所の鉄格子のなかでの “Betrayed” である。たいして踊るわけではないにもかかわらず圧巻なのは、なんといっても「史上最悪の演出家」宅での “Keep it gay” ではあるまいか。ゲイリー・ビーチとロジャー・バート演じるゲイの演出家カップルは、天井知らずのハイテンションぶりで観る者を圧倒する。

逆にうまくいっていなかったのは、ユマ・サーマンだ。ブロードウェイのオリジナル・キャストで固めているなかで、彼女は映画化にあたってのキャスティングである。背の高いグラマーという容姿はともかく、致命的なのは歌もダンスもだめなことだ。 “That face” では、スピンするところはスタントしていた(顔が映らないようにショットを割っていた)。「春の日のヒトラー」のコーラスガールズのところで、ブロードウェイ版では「エレノア・パウエルばりのタップを踏む」とされているが、サーマンはただ衣装を着て立っているだけ。歌も声が伸びず、苦しい。

今日世界のミュージカル映画を語るのであれば、大量生産地であるインドや北朝鮮や、あるいは香港あたりのそれを念頭におかなければなるまい。しかしあえてハリウッドに限定して考えるのであれば、フレッド・アステアやジーン・ケリーの活躍したあとのハリウッド製ミュージカル映画は、もはやスクリーンのなかで歌とタップで愛を語っていても許されなくなり、「社会」や「人間」を「描く」という「シリアスの呪縛」にとらえられることになった。たしかに、暴力や差別やさまざま格差によって絶望的に引き裂かれていることをもはや隠しおおすことのできなくなった世界において、それは一面やむをえないことであったかもしれないが、結果としてミュージカル映画は、かつてその魅力の源であった「浮遊感」を決定的に失ってしまった。

この喪失は現在の社会の根本的な困難と関係している。ただ黄金期のミュージカルのスタイルをなぞるだけで戻ってくるものではない。たとえばこの作品では、かなり意識的に、ダンスのシーンでは踊り手の全身をフレームで捉え、身体の動きにあわせてカメラを動かし、ショットも細かく割らないようにして撮られている。知られているように、これは1930年代にRKOにアステアが要求した撮影方法であり、タップダンスの最善の撮り方といわれている。しかし、そうはいっても、近年のほかのミュージカル/音楽映画に比べて相対的にそうである、というにすぎない。じじつ画面にいるのはアステアではなく、そのダンスの質は、フレームで全身を捉えて撮影されることには堪えられまい。また極端に短いショットをつないで編集でリズムを構成するという、ミュージック・ビデオ以降に広まった手法に馴らされている現在の観客の知覚をも勘案すれば、マーク・サンドリッチやヴィンセント・ミネリのように撮ることはむずかしいだろう。また、この作品は全編が下品で濃いギャグでみっちり埋め尽くされている。メル・ブルックスの作品はどれも前からそうだが、ミュージカルの「シリアスの呪縛」を斜めから絡めかわして、練り込もうとしたと受けとれなくもない。メル・ブルックスとストローマンはこの作品を撮るにあたって『雨に唄えば』のような「頭の先からつま先までミュージカル」に仕立てたいと語ったという。『雨に唄えば』の「浮遊感」が砂糖と生クリームをたっぷりくわえたカプチーノだったすれば、それから半世紀が経過した『プロデューサーズ』のそれは本場のエスプレッソのように苦みばしったテイストであるといわねばならない。

21世紀の今日、「浮遊感」をもったミュージカル映画を撮ることは、製作にあたった当事者たちが自覚していようがいまいが、それ自体がチャレンジングな企てであり、ゆえに価値ある仕事である。そしてこの作品は、この失われた「浮遊感」を今日的なかたちで取り戻すことに挑み、少なからず成功した。その意味で、少なくともぼくにとってはとても好ましい作品である。