2度観たといえば、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』もそうだ。
先に公開された『父親たちの星条旗』につづく硫黄島二部作の第2弾。前作『星条旗』では硫黄島の戦闘をアメリカ側から描き、日本兵はほとんど顔すらはっきり映さなかった。逆に本作でイーストウッドは、その「顔の見えなかった」日本兵たちが硫黄島でどのように生き、たたかい、死んでいったのかを描く。
ぼくが観に行ったときは二回とも、観客も多く、年齢層はわりあい高めだった。合州国で早くもいくつかの賞を受賞したというニュースも手伝ってか大ヒットし、ときならぬ栗林忠道ブームが現出しているようだ。ただ、栗林のことや硫黄島の戦闘のありさまについては戦記物以外にも、すでに城山三郎や上坂冬子、最近では梯久美子らの著作群があり、日本では少なからぬひとがある程度のことを知っていたのではなかったか。
本作品の日本での受容のされ方について、12月13日付け朝日新聞紙上の記事は好例だった。立場を異にする三人の識者の談話をならべたこの記事では、「細部に間違いはあるが日本についてよく調べ、見方も公平、日本人が作るべき映画」、「映画でのみ可能な、具体的なイメージで迫る現実感のある戦場の再現がすごい、かつて日本に真の戦争映画があっただろうか」、「9.11以降の米国にとって、世界中で日本だけがわかり合いたい相手」という三つの見解が示されていた。どのコメントもそれぞれの立場を考えるとあまりに典型的というか文字どおり絵に描いたように図式的すぎて、識者たちが本当にこのとおりの内容をしゃべったのかどうか怪しい気もしないではない(この手の「談話」では、結果として、発言者の意図と掲載される談話の意味とが乖離してしまうケースが、ままある)。いずれにせよ本作品にかかわる日本的諸言説は、この三つにもうひとつナショナリズムの文脈のそれをくわえた四典型をそれぞれ極とする空間のなかに位置づけられるといってよいだろう。
「敵」を「敵」として、つまり自己から疎遠な排除すべき他者としてではなく、「われわれ」となんら変わるところのない人間たちとしてその相貌を描きだしてみせることには、一般論としての正論以上に、明確な狙いがあるのだろう。製作にスピルバーグがくわわっているのも意味深で、『プライベート・ライアン』で「ついつい失敗してしまった」(とぼくはおもう)スピルバーグが自身のイメージをこの硫黄島二部作に託したという側面もあるのではないか。むろんそのことは、9.11以後現在にいたるまで「戦時下」にあるブッシュ政権合州国の政治的状況と無関係であるはずがない。というより、不可分であるだろう。この作品は、だから──当然のことながら──まず第一に、合州国の映画である。
ただし、そうではあるのだけれども、このような捉え方はもう一方で、21世紀のアメリカ映画はなんでも9.11との絡みで説明してしまえる、という話にも陥りなりかねない。ここではその手前でもう少し踏みとどまってみたい。
一本の映画として観たときこの作品は、全体として、非常によくできた映画であるという印象を与えるはずだ。とりわけ『星条旗』と対比したとき、時制の構成の仕方の違いは、奇妙なまでに印象に残る。『星条旗』では、時制をこまかく操作して、戦場における戦闘と、「銃後」における戦闘の神話化とのあいだを頻繁に行き来して観る者をして混乱させるかのような構成をとっていた。これにたいして本作品では、原則として時系列にエピソードがならべられ、ごくオーソドックスな語り方が採用されている。
この違いには、もちろん理由があるだろう。前にも書いたとおり、『星条旗』の上映後に流された本作品の予告編を見て愕然となった。その予告編には、『星条旗』で否定されていたことの逆、つまり「英雄づくりへの加担」がみなぎっていたからだ。そして実際問題として本作品で描かれるのは、案じていたほどではなかったとはいえ明らかに、「敵」であった旧日本軍のなかに「知られざる英雄たち」のいたことである。一方で「勝利」したはずの米軍のなかの「英雄たち」を解体し、他方で「敗北」したはずの旧日本軍のなかに「英雄たち」を見出す。この対比である。
「英雄たち」とは、もろもろの旧日本軍の軍人たちであるわけだが、とりわけ渡辺謙が信じがたいハイテンションで演じる硫黄島守備隊の指揮官栗林忠道中将と(それゆえ、冷徹な合理主義者という側面がかすみ、むしろ神懸かり的に見えてしまう)、伊原剛志演じる西竹一中佐(ヒューマニストで米国の理解者という側面が強調される)には、物語は特段の注目を与えていく。
本作品で「英雄たち」が描かれることと、オーソドックスな時系列の構成を採用していることとは関係があるのではないか。ある出来事を、渦中にある特定の人物に焦点をあてて、時系列的に物語っていけば、なかば当然の帰結として、その人物が他よりも際だって描かれることになる。そのようにして、ひとつの物語のなかで特別な地位を提供される人物像が、ただちに「英雄」像へとつながるのではないにせよ、あらゆる「英雄」の基盤には、このような物語り方が忍び込んでいる。たとえば、マスメディアにおけるスポーツの語られ方を想起すれば、ぼくたち自身が日常的にそれを受容し再生産しつづけていることに気づくはずだ。ということは、『星条旗』における実験的な手法は、それがたんに戦場と「銃後」、記憶と「現実」とが混濁していくことだけを狙ったわけではない。それは、「英雄づくり」のメカニズムを相対化し解体するという『星条旗』のテーマを担保するために選ばれた方法だったとも理解されてよいのではないか。
オーソドックスな英雄物語の形式を踏襲しているとはいうものの、本作品は、もちろん凡百の戦争映画とは大きく異なっている。死が求められている軍人や兵隊たち暮らしぶりや、凄惨な戦闘のありさまを、即物的なまでに淡々と語る姿勢を徹底させるわけだが、それを支えるのは周到な計算と絶妙のバランス感覚である。全編を貫く抑制は、観客が、物語の起伏や経緯を見失ってしまわないぎりぎりの線で注意深く踏みとどまっている。日本兵が捕虜にした米兵を虐殺すれば、米兵も投降した日本兵俘虜を射殺する。日本軍が負傷した米兵を助ければ、その逆がある。なにより米軍に太平洋戦争最大の出血を強いた栗林こそ、もっとも米国を理解していた。栗林は、だから日本という理解困難な「敵=他者」のなかに見出された米国=自己だった。
「地獄めぐり」(小林信彦)の狂言回し役、『神曲』でいえばダンテ自身にあたる役まわりである二宮和也演じる元パン屋の徴集兵西郷は、小銃もろくに撃てず、またその気もなく、ということは絶対に米兵を(日本兵も)傷つけることがない存在として描かれる。かれは物語の要所で、小銃──作品中では「ライフル」という言葉がつかわれている──ではなく円匙(シャベル)を手にしてあらわれる。小銃も円匙もどちらも歩兵には欠かせない携行品だが、両者はその形状がよく似ていながら用途は対照的である。むろん偶然ではあるまい。そのことは、西郷は「大日本帝国」にも「戦争の大義」にも「鬼畜米英」にも「天皇陛下万歳」にも「玉砕」にも、およそ太平洋戦争時に支配的だった権力的言説に与する用意を一切もちあわせていないことを示している。西郷の人物像は、観客はその立場にかかわらず、この人物に感情移入できるよう造形されているのだ。
したがって、西郷がこの物語のなかで占めている位置は、『星条旗』においてライアン・フィリップ演じる葬儀屋ドクという海軍衛生兵──戦場におけるかれの仕事は助けることであり、「敵」を(友軍も)傷つけない──が占めていたのとほぼ同じである。
蓮實重彦によれば、ドクと西郷は似たような人物として描かれているという(「合衆国海軍の衛生兵をめぐる長年の疑問について──クリント・イーストウッド監督『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』」、『UP』2007年1月号)。ただしぼくの目に映った西郷は、蓮實がいうほど寡黙な人物像ではなく、むしろおしゃべりの部類に入るようにおもわれた。寡黙で沈着だったドクがある種の「賢さ」を身につけた人物であるのにたいして、おしゃべりで軽率な西郷に賢さは与えられていない。代わりに、職人気質というか、義理堅さで特徴づけられている。ドクと西郷は、対照的な人物として造形されながら、物語のなかで同じ位置を与えられているのである。
『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』とはひとつの対をなしている。そこでは、たんに米日という視点の相違だけにとどまらず、さまざまな点で対称関係を形成している。そのとき対称の軸におかれているのは、ドク=西郷という人物である。