学長選挙

本務校の学長選挙がおこなわれた。この手の行事に参加するのは初めての経験だ。編集者時代にいくつかの出版社に勤めたが、出版社といえども会社だから、ふつう選挙で社長を決めたりはしない(決めてもいいのに)。良し悪しはともかく、大学ならではのしくみである。

ぼくは選挙管理委員の補助に任じられた。わが文学部の選管・小野さんを当日お手伝いするという役まわりだ。小野さんはほぼ同年代、テキパキと選管の仕事をこなすかたわら、せっせとジョークを連発する。二人でいるとほとんど高校生ノリである。小野さんは仏文学者にして小説家であり、その作品の静謐に接したことのあるひとにとっては意外かもしれないが、ひとを笑わすのがとんでもなく好きなのだ。するどく、ときに辛辣でもある。スタンダップ・コメディアンの道を選んだとしても、きっと大成しただろう。いや、いまからでも遅くはない。

学長選挙なるものがどんな儀式なのか、という点にも密かに興味のあるところだった。本務校特有の習慣なのか、投票会場には教員・職員が全員集まる。第一回投票は、教員・職員の区別なく投票することができる。学部ごとにひとりずつ投票用紙をうけとり、そこに候補者名を書き込んで、投票箱に投票する。その結果、上位三名に絞って第二回投票がおこなわれる。これに投票するのは教員だけ。職員の方たちはオブザーバーとしてようすを見守っている。ここで過半数をとる候補がいなければ、上位二名による決選投票となる。相対多数に決定するわけだが、万一両者同数のばあいは抽選となるそうだ。

選挙に先だち牧師さんが登場し、つぎのような意味のことを述べた。どうかわたしたちが正しい道を選ぶことができますように──。このように行事に先だち牧師さんがひと言お祈りを捧げるのは、学長選挙に限らず、およそこの大学の行事全般に見られる習わしである。なにしろここは日本でもっとも古いキリスト教系の学校のひとつなのだから。そして、なにか決定しなければならないときには、決まって上のような発言がなされる。一般に決定は、判断をくだした段階では当該判断の最終的な妥当性は判定できない。ところが、ここで牧師さんの言葉が効いてくる。あの言葉を聞いたあとであれば、引きつづいてくだされる決定の如何にかかわらず、それをうけられるような気がしてくるから、不思議なものである。ぼくは特定の宗教を信じる者ではないけれども、こういう光景に接するたびに、宗教というものについて考えさせられる。

今回の選挙結果が、牧師さんのおっしゃったようでありますように。

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