映画『崖の上のポニョ』

最近一本の映画を二度観ることが多い。《あ》によれば、昔からそういう癖だという(そうだったっけ)。この作品もやはり二度劇場へ観にいった。二度目のほうがよかった。

内容的に突っ込むべきところは少なくない。てんこ盛りの諸要素はうまく噛みあわず、全体にちぐはぐ。観終わった《あ》は、どの登場人物も魅力的でなくて困ったと感想を述べた(子どもたちのお気に入りはフジモト)。5歳の男の子はやけに分別くさく、それ以外はじぶんのことだけで手いっぱいというひとたちばかりがあらわれる。物語は、つけるべきところでメリハリが十分に利かせられておらず、イコライザーの調整がうまくいっていない録音を聴くみたいにまどろっこしい。

それに、またしても「魔法」だ。なにもかも劇中で説明をつけるため、話のつじつまをあわせるための文字どおりの「魔法」なのかというのと、そうでもない。「魔法」をもちだされても話はいっこうに腑に落ちず、この設定に物語上いかなる必然性があるのかよくわからないまま1時間40分ほどの上映が終わってしまう。終わっても、素直に「よかった」という気持ちにはなれない。なんともいえず困った感情が残る。

しかしそれでもやっぱり、この作品はチャーミングだ。では、その「チャーム(魅力)」はどこに宿っているだろう? たぶんそれは、物語や人物やメッセージを追っかけているだけだと理解しにくい性質のものなのだ。

スクリーン上で圧倒的な展開を見せるのは、手書きの線への拘泥と、その線を動かすことへの尋常ならざる情熱である。それはたとえば、どうどうと逆巻く海や波の動き、物語の背景でわさわさと蠢く海の動物たちのようすに顕著に見てとることができる。あるいは他の宮﨑作品と同様、日常のなにげない身体のふるまいをするどい観察眼によってとらえ、それを独特のデフォルメをくわえつつ丹念かつ仔細に描いてみせることも同様だろう。

これらは一般には、CG全盛時代におけるジブリ的ないし日本アニメ的なアプローチなどというように、物語やメッセージとは区別された技術的な水準におけるひとつの逸話として理解されるかもしれない。じじつ監督の宮﨑駿自身がそう語り、メイキングもののテレビ番組や雑誌が好んでとりあげてきた。そうした面はたしかにあるだろう。でも、それだけではない。

手書きの線画を動かすとは、ようするにパラパラマンガである。ノートのはじっこに少しずつポーズを違えた絵を描き、ページをパラパラとめくる。するとその絵が動きだしたかに見える。これをパラパラマンガとよぶ。本作品は、劇場用長編映画として巨額の資金を投じて制作された「大作」にちがいないが、その実は全編パラパラマンガなのだ。本作品のチャームの源泉は、ここにある。そしてこの点において、今日におけるもっとも前衛的な志向性を体現した作品のひとつであるといわねばなるまい。

ドキュメンタリーであれ、いわゆる芸術映画であれ商業映画であれ、たいていの映画は「映画」の枠組みの内部で撮られる(テレビドラマなども同じ)。例外はほぼなく、つくり手も観客も評論家も誰もそのことを疑ったりしない。その枠組みの内側にどっかと座り込み、座り込んでいるという事実すら忘れたうえで、出来の良し悪しや興行収入の多寡を競い、「感動」したかどうかだとか、演技のうまさだとか、作品のメッセージだとか、参照すべき作品は何だとかといった議論をかわす。線の描き方や動かし方も、CGやVFXといった話と同じく、物語やらメッセージやらを語るための装置にすぎないと前提したうえで、せいぜいマニアックな技法上の問題ととらえるにとどまるケースがほとんどだ。

この作品はちがう。アニメーションという立場に立ちながら「映画」の枠組みの内側からその限界に向けて接近し乗り越えようとしている。あるいは、アニメーションという立場から映画をもう一度発明しなおそうとしたといってもいい。当事者にはそんなつもりは毛頭ないだろうが、すぐれてメディア論的な企てだといえる。

そもそもアニメーションと実写のあいだの境界線は一般におもわれているほど明瞭ではない。最近ではたとえばウォシャウスキー兄弟の『スピードレーサー』(なんともひどい作品)を想起すればいい。誰がみても、もう実写だCGだと区別することにほとんど意味は感じられまい。興味深いのはウォシャウスキー兄弟がこの作品中に、主人公の少年が教科書の端に落書きしたクルマの絵をパラパラマンガで動かすシーンを挿入するのを忘れなかったことだ。

パラパラマンガは映画のもっとも原初的な様態のひとつである。アニメーションであれ実写であれ、動きそのものは静止した映像を連続提示することでしか得られない。その事実を、多くのひとはすっかり忘れている。だが、多くのひとが忘れ自明視しているものにこそ、鋭い目が向けられなければならない。ふだん自明視しているみずからの拠ってたつ世界の成り立ちこそ根源的な地平なのであり、それこそが深く掘り抜くべき地平なのだ。

だから、ここで描かれる世界観、人物、物語などといった表象は、たんにメッセージを代理するという立場にとどまって満足してはいない。扱われる題材、描かれる物語、つくった者や観た者が語るメッセージといった諸々は、この作品が壮大なパラパラマンガであるという成り立ちと密接に、いや不可分に関係しており、この点を抜きにはとらえられない。この作品はしたがって、総体として観る者に一個の新たな性質の経験をもたらすことを志向した作品であると考えるべきだろう。

前作『ハウルの動く城』はいったい何がやりたいのか理解に苦しむつらい作品だった。子どもたちがいまでも話題にするのはカルシファーが「そうかなあ」といって気をとりなおすシーンだけという現実が端的にそのことを示している。これにたいして今回は、少なくとも何をやりたいのかははっきりしている。明解であって、しかも根源的だ。

ぼくにとってこの作品がチャーミングなのは、そのような意味においてである。もっとも商業性を要請される性質の作品においてもっとも根源的なアプローチにいどんだ監督以下スタッフ一同に敬意を表したい。

ただし、もちろん本作品において、そうした企てが首尾よく成功しているかといえば、そうではない。『千と千尋の神隠し』の方向性へ先祖返り──あるいは地金が露呈──している部分もある。しかし企てとはそのようなものだ。それでもあきらめることなく、あの手この手であらたな企てに赴く。おそらく、それが創造という営みの根幹をなすのだ。