映画『デトロイト・メタル・シティ』

映画『デトロイト・メタル・シティ』を観た。うーん、予想どおりというか、なんというか。

基本的にアイディア勝負の作品だ。だから作品の成否は、そのアイディアをどう展開し、観る者を笑わせつつ物語を引っぱってゆくかという点にかかっている。ところが話はいっこうに展開することなく、せっかくのアイディアもありきたりの価値観と凡庸なストーリーに押し込められて窮屈そうにしているうちに、上映が終わってしまう。

大半が原作物である昨今の邦画のほとんどと同じく、本作品も、原作マンガの枠組みと名場面を映像でなぞることに終始している感が拭えない。少々厳しい言い方をすれば、マンガに媚びている。

このことを端的に確認したければ、たとえば松雪泰子のズレっぷりをみればよい。「怪演」の評価を得ようと努力したのだろうが、そうであるだけにその姿は、残念ながらかなり痛いたしい。けれどもそれは松雪だけの責任ではない。どうも作品全体としてすすむべき方角がはっきり見定められないまま撮られたのではないか。

原作物であること自体が悪いとはおもわない。マンガがこれまで映画から多大の影響をうけてきたように、映画はマンガから影響をうけるだろうし、現にすでに有形無形にさまざまな影響をうけてきただろう。だがそれを、映画がマンガに阿諛することと混同してはならない。

マンガと映画。それぞれがもつメディア的想像力は、まったく異なる拡がりと性質をともなっているだろう。あるマンガ作品がもつおもしろさは、マンガというメディア的想像力の十全な発揮を抜きに考えられない。だからマンガ(べつに小説でも詩でもエッセイでも批評でもなんでもいいのだが)を映画にするのであれば、原作の世界を映画的想像力においてもう一度発明しなおしてくれなければ困る。少なくとも、そうしようという志をさいごまでどこかに置き忘れてしまうことなく製作をまっとうしてほしい。映画のつくり手にとって、それが「映画化」することの意味であるはずだ。