映画『南極料理人』

舞台は南極、それも昭和基地から1000kmも遠く離れたドームふじ基地。ペンギンはおろかウィルスさえいない。ここに住むのは、観測のため越冬している隊員たちだけだ。しかしこの作品が描くのは、かれらの本務である科学的な観測活動ではなく、タロジロ救出劇のような英雄譚でもない。それ以外のすべての時間を占める、日常生活のほうだ。

朝起きる。トイレにゆく。歯みがきする。髭剃りをする。その順番を待つ。そして朝食。そうした、ほとんどどうでもいいような些事のディテールをえんえんと積みあげてゆく。ディテールが、どこまで事実でどこからが映画的に誇張してあるのかは観客からは判別しにくいが、場所が特異であるだけで、行為自体に大きなちがいはない。人間どこに住もうとも、けっしてこれらの些事から手を切ることはできないのだ。

そして本作品が成功しているのは、全篇これ、こうした些事だけで構成することを貫いているためである。

日常を淡々と描く、なにも起きないお話は、年に何本か撮られる。なにも起きないことを標榜しながら、妙に力んだ箇所が鼻についたりして、たいていは狙いどおりにはいかない。文字どおり「なにも起きない」のであれば、観客は2時間もスクリーンをながめていられまい。そのことは作り手もよくわかっているから、どこかしらからドラマが侵入してきてしまうのだ。なにも起きないことを志向しているだけに、侵入してきた小さなドラマはすぐに増幅されて暴れ出してしまう。

なにも起きない作品を成立させるのは、むずかしいのだ。定型どおりでかまわないから起伏に富んだドラマをつくるほうが、ある意味ではよほどやりやすいだろう。たとえば、物語性とは無縁であるかのようにいわれる私小説というジャンルでも、本当に「なにも起きない」小説はほとんどない。例外は庄野潤三くらいではないか(拙著『アトラクションの日常』第7章参照)。

日常の些事そのものが主人公である本作品において、その構成原理は「家族」である。堺雅人が日本に残してきた家族と、そこから遠く離れた基地内での隊員たちの生活のあり方が、ひとつの「家族」というイメージによって統率されてゆく。惜しむらくはその「家族」のイメージが、いまとなっては一時代前の、といわざるをえない類型であったことだろう。