さる私立高校の学校見学会という催しに行ってきた。受験生の《みの》の付き添いである。
ぼくの高校受験経験といえば三十年ちかく前の名古屋のそれだけだ。だから現在の首都圏の高校受験事情などまったくわからない。学校説明会や見学会など、当時の名古屋ではありえないことだったので、まるで想像外のことだったのだが、だれもが「大事です」と口をそろえてアドバイスしてくださる。それも親が付き添うべきなのだという。
郷に入っては郷に従えというわけで、夏休みに入って《みの》は公立高校の学校説明会には二つばかり出かけていった。いずれも《あ》が付き添ったので、ぼくが行くのは今回が初めて。お盆だというのにたくさんの参加者がある。しかも受験生よりも保護者のほうが人数が多い。生徒ひとりにつき夫婦で来ているなんてところも多かったから、当然だろう。
話を聞いていておもしろかったのは、制服についてである。その高校は、制服はいちおう定められているが、着用義務があるのは入学式や始業式など「式」と名のつく行事があるときと、記念写真を撮るときだけ。あとは自由だという。その姿勢は妥当だとおもう。
ぼくや《あ》の通った高校も、それにちょっと似ていた。そこは、徹底した管理教育で知られた当時の愛知県にあって唯一、「黙認」という形で、私服での通学が可能だった(いまどうなのかは知らない)。なんでもそれは、学生運動の時代に、制服という形で生徒を管理することについての「闘争」があり、その結果として勝ちとられたことらしい。そのように、当時の先生方や先輩たちから教わった。しかも高校一年のころまではこの学校には上履きというものがなく、校舎内にみんな土足であがっていた。迷い込んできた犬を教室の隅で勝手に飼ったりもしていた。
だから、今日少なくとも首都圏では一般化している、制服を「かわいい」という尺度で査定するような見方は、ぼくにとってはかなり不思議な感覚である。それは、ある意味では制服という形による管理を内側からズラしてなし崩しにしているともいえるし、けっきょくのところ管理されること自体に抗うのを端から諦めているともいえる。いずれにせよ、制服やら髪型やらにかんしてやたら細かい規定を設けてそこに生徒を当てはめようとするのに熱心な学校は、それだけで、ああ、もう結構です、といいたくなる。
もっとも当の《みの》自身にとっては、それはどうでもいいことらしい。かれの関心はもっぱら、バドミントン部があるかどうか、あったとしたら男子がいるかどうか、どのくらい強いかということにのみ向けられている。この日も校舎内見学ツアーの折り、体育館でバドミントン部が練習しているのに出くわした。そのようすを《みの》は熱心に検分し、「うーん、空振り」とつぶやいたりしていた。
見学会は予想より早く終わったので、帰りに新宿に出て二人で『南極料理人』を観た。三日前に観たときも混んでいたが、今日は完全に満席。お客さんはよく笑っていた。終わりにさしかかるショットを迎えたとき、もう少しこのまま観ていたいという気持ちの湧きでてくるのを抑えられなかった。