文化人

ごくごくたまーに、ではあるが、「文化人」とよばれるひとたちに出くわす。シンポジウムとか委員会とか会合とか、そんな機会だ。ふだんは木陰でぐうすか昼寝するカピバラさんのように地味に暮らしているというのに、たまにそんな場に引きだされるとけっこうな確率で遭遇する。

かれらは見るからに大物然としてふるまう。こちらはせいぜい端役にすぎない。たいていはずっと離れたところから、かれらの行状をながめている。この手のひとたちは、パネラーなどとして同席するとかなり迷惑なのだが、テレビの向こう側的な距離感をたもって観察しているぶんにはなかなか興味深い。ワイドショーを見ているような、一種すがすがしい気持ちになる。

そのうち気がついた。「文化人」のあり方は、なんだかある種の「芸能人」にそっくりではないか。すなわち、つぎの7点において。

(1)やたらエラそう。
(2)よくしゃべる。ほぼ自慢話。
(3)ひとの話はまず聞かない。
(4)そのくせ単独行動はしない。しばしば取り巻きを引きつれる。
(5)著名人と見るとやたら親しげなそぶりを見せる。
(6)「××プロデューサー」という肩書きが好き。
(7)どんな業績があるのか、よくわからない。

芸能人でいえば、みのもんたや和田アキ子みたいな感じだ。

「文化人」たちのふるまいは、むやみに押しが強いばかりで、粗野でちゃらんぽらんに見えるし、実際そうだ。でもよく見ると、あんがい一貫している。じぶんがいかにエラく、強大な影響力の持主であるかを、あらゆる機会をつかまえて熱心に周囲に知らしめようとしているだけなのだ。それだけを熱心に遂行しているのだ。

そんなことをなぜわざわざ他人に周知し続けなければならないか。称賛を欲しているからだろう。「大物」なのだからもうさんざん称賛を得ているはずではないかとおもうところだが、たぶん誰も称賛してくれないのだろう。少なくとも、かれらを満足させるようには。だから周囲に向かって称賛を強要しなければならないのだ。つねにまわりに他人が必要なのは、人間への関心ゆえではなく、称賛要員としてである。そう考えると、かれらの傍若無人ぶりがいじらしいまでの努力におもわれてくる。

こうした「文化人」たちの涙ぐましい努力は、しかし実を結ぶようにはおもわれない。どうしたところで、やはり誰もかれらを本気で称賛したりはしないだろう。べつに不思議でもなんでもない。何かに貢献しているわけではなく、たんに寄生しているにすぎないからだ。

もしかすると、そこにかれらが「文化人」とよばれる理由が隠されているのかもしれない。「文化人」がなぜ「文化人」とよばれるのか、昔から謎だった。「文化」という言葉のうさんくささを体現しているからかなと考えたりもしたが、もう少しいろいろありそうだ。

「寄生」という様相は、「文化」にかんする古典的な図式にそっくりである。それは「文化」を政治や経済を中心とした社会の余剰、あるいは装飾ととらえる。古典的な図式は、それだけに根強い。大新聞などではいまだに政治部や経済部がいばっているが、これなどその典型である。

この図式は「文化人」と呼ばれたがる者にとっても、誰かをそう呼びたがる者にとっても都合がよい。業界ゴロを正当化する論理に転用すれば、便利このうえないからだ。その意味で「文化人」とは、文化が不在する世界観のなかにしか成り立ちえない存在様式だといえよう。

*サーバ不調のため100127再投稿。「文化人」の呪いか。