すべてがネタになる

事業仕分けのネット中継が話題である。動画中継も大規模におこなわれるようになったものの、あらためて思ったのは、Twitterが実況にいかに向いているか、である。これでキャノンボールみたいなことをやったら、さぞ面白かろう。

ところで、こうしたネット活用は、しばしばネット民主主義と結びつけられて語られる。もとより「パソコン文化論」は伝統的に、「草の根民主主義」の神話を共有してきた。電子テクノロジーによって実現する、対等な個人による討論の場──いわゆるデジタル公共圏である。「ネット論壇」などという言い方も、このような発想の上に成立している。

たしかに、事業仕分けのネット中継などをみていても、そこにネット民主主義的を夢みたくなるような何かしらの芽が含まれていると、感じられないでもない。そしてそのことを感じとった既存のマスコミはジャーナリズムの既得権益をおかされるように受けとるだろうから、これを叩いたり、あるいは逆にすり寄ったり持ちあげたりもするだろう。だからそれらとは一線を画したところで、ネット民主主義的可能性を批判しつつ擁護することは、おそらく重要なのだ。

しかし、それと同じくらい重要なのは、たとえば事業仕分けネット中継にたいして、ぼくたちが「実際のところ」どんなふうに接していたかをあらためて見つめてみることだ。

なぜぼくたちがあの中継を眺めていたかといえば、ようするに、面白かったからだろう。一部の生真面目な層はともかく、全体としてみれば、事業仕分けは「娯楽」として見られ、語られてきたはずだ。「娯楽」で語弊があるのなら「ネタ」といったほうが適切かもしれない。

ネタとは、ようするに話題のための話題、のことであり、そのことを誰もじぶんの身でひきうける用意のない題材のことをいう。いいかえれば、ネタとは、自己を安全地帯においた者によって語り消費されるがゆえに、遊戯的だといえる。

「ネタ化する社会」こそがネット社会の実相である。現在のネットサービスの大半は、そこでやりとりされる内容ではなく、「やりとり」が継続する過程ないし状態に焦点化しているだろう。したがって、そこでとりあげられる題材はすべてネタなのだし、世界のあらゆる事柄が潜在的にネタになりうる。

だから世界を満たすあらゆる事物と、それを語る「わたし」との距離に遠近はない。それはどれも近くて、どれも遠い。なんであれ眺めることはできるが、どれとも触れあうことはできない。

この距離感を端的にぼくたちに提供するのが「車窓」である。鉄道車両の座席から車窓を眺めるようすと、ディスプレイごしに世界を眺める様相とは、ほぼ相似形なのだ。

拙著『アトラクションの日常』でも述べたように、車窓はたんなる風景ではない。それは、ひとつの認識の枠組みである。車窓において展開するパノラマ的光景は、それを「眺める」こと自体がたのしみの対象だ。パノラマの車窓は、乗物の構造体や、それが高速度で移動することによってもたらされるが、そのさいに「近景」を脱落させて、「眺めるわたし」と「眺められる風景」とに世界を二分する。そのとき「風景」とは、たんなる地形のありようという自然地理的な実在というよりも、「眺めるわたし」をたのしませてくれる(くれなければならない)ネタにほかならない。そして、車窓においては近景という媒介項が抜けているため、「わたし」はけっして「風景」の内部にかかわることはない。「わたし」はパノラマの車窓のすべてを眺めることができるが、そのいずれとも触れあうことはできないのだ。

それは、ほとんどネタ化するネット社会の認識図式そのままである。近景が脱落し、すべてが観照=眺めることの対象としてしか認められなくなった。その感覚が、いわゆるメディア化した現代の基盤をなしている。

凡庸な社会評論なら、そうした感覚はリアリティの喪失によってもたらされた、と語るだろう。しかし、それは間違いだ。そうした車窓的な感覚こそが今日のリアリティなのだから。

ぼくたちに出発点があるとしたら、そこを措いて他にはない。