近所の酒屋さんに見たことのないアサヒの糖質ゼロのビール(ビールふう飲料というのか)がおいてあった。糖質ゼロ、アルコール分も4%と低め。1本買って飲んでみた。味は、良くも悪くも、とくに印象に残らなかった。
カロリーゼロなどを売りにしたビールが流行っているようだ。サントリーのオールフリーというのは、アルコールさえ入っていない。ノンアルコールビールというやつ。だったら麦茶にしておけばよさそうなものだが、そうもいかないらしい。
そんな話をうちでしたら、《あ》と子どもたちが、どうせ「オールフリー」と名乗るなら、値段も「フリー」にしたらいいではないかと言いはじめた。なるほど、そりゃそうだ。お代はいらないよ、オールフリーなんだから、といって、どんどん配ってしまえばいい。
もちろん商品をフリーで配っているだけでは、企業はたちまち潰れてしまう。であれば、どうすれば成り立つかを考えてみる必要がある。
そこで、妄想してみた。
飲料のほうはフリーにして配る。そのうえで、こういう活動をする事業体はエライ、ぜひ今後も飲みつづけたい、というひとは製造元に寄附する、という形はとれないものか。
現在一般的な商品経済では、商品やサービスとひきかえに、それに見あった(とされる)対価を支払う(これを「対価方式」とよぼう)。これにたいして、商品への対価ではなく、事業体の活動に共感し、それを支持支援するという意思を寄附として表現するという考え方だ(同じく「寄附方式」とよぼう)。このばあいの事業体は、NPOやNGOなどのように非営利事業という位置づけになるだろう。
寄附方式的な商品経済にどれほど有効性や必要性があるのかはよくわからないが、とにかく妄想をつづけてみる。
このばあい、事業が継続的につづけられるかどうかは、妥当なだけの寄附金がきちんと集まるかどうかにかかっているだろう。
対価方式のばあい、商品とお金とが直接かつ同時に交換されるのだが、寄附方式のばあいはそうではない。消費者の寄附は、事業体の活動にたいする共感という意味なので、それは消費と交換に同時に支払われなければならない理由はない。いつ、いくら支払ってもいい。極端にいえば、商品を手にしていなくても寄附だけしてもよい。事業体の側からすれば、活動資金は、商品の生産量や流通量に制約されない。ある意味で「自由」なのだ。
このように、消費量と事業体が得る収入とが必ずしも相関しないという点は、一般的な経営論的視線にはリスクと映るだろうが、考えようによっては最大の利点だともいえるかもしれない(でもないか)。
では、消費が対価という考え方から切り離され、いつでも誰でもいくらでも寄附すればいいとなったとき、ひとはどういう行動をとるだろうか。ちゃんと妥当な額を寄附をするのか、それともフリーライドするだけなのか。
前者のばあい、何をもって「妥当」な額とするかは、簡単ではない。
たとえば、宿泊代を客が決めるという宿があるらしい(利用したことはない)。そういう宿に泊まった客は、実際のところ、どれだけの額を払うのだろうか。たいていのひとは、一般的な相場に照らした額を支払うのではないだろうかと想像する。なかには本当に些少の額しか置いていかないひともいるかもしれない。
反面、宿泊代を客に決めさせるという仕組みそのものになじめないという感覚もある。《あ》もそのひとりだが、彼女によれば、なんだか試されているみたいに感じてしまうのだという。
後者のばあい、「フリー」であることに乗じた意図的なフリーライドは、残念ながら、一定ていどは生じるだろう。けれども意図せざるケースというのも起こりうる。
消費の場面と寄附することとのあいだに、時間的なタイムラグがあると、両者は行為として関係づけられにくくなる。消費者のほうにフリーライドするような意図がなかったとしても、結果として、消費しただけで、寄附のほうは忘れてしまう、ということも起こりえよう。
だとすれば、消費と寄附とを連動させる仕組みを用意しておく必要がある。しかし、消費と寄附との時間的距離が限りなく近づけば、対価方式における商品とその対価という形に限りなく近づいてしまいかねない。売れるということは、ある種の「共感」なのだと(代理店チックな表現をすれば)いえなくもない。たくさん売れたから儲かるという対価方式は、それなりにシンプルでわかりやすく、それゆえに強力な仕組みなのだろう。
それにそもそも、共感をお金でもって表現するという点が、とくに日本的感覚には受け容れられにくいところかもしれない。
今日の資本主義的商品経済にたいするオルタナティヴを思考実験してみることは、けっして無意味ではないとおもう。あいにく、ぼくの妄想する寄附方式は、やはり妄想だおれ、ということになるようなのだけれど。