大飯原発再稼働の報道が一面を飾ったちょうどその日(6月9日)から、朝日新聞の「プロメテウスの罠」というコーナーで「病院、奮戦す」と題した連載が始まった。その重要な舞台が福島県双葉郡広野町にある高野病院である。高野病院は、30km圏内で「避難せず、入院医療を続けた」唯一の民間病院だ。
朝日をはじめとする全国紙については、東日本大震災と福島第一原発事故にかんする報道姿勢を疑問視する声がある。ぼくも基本的には同感である。とはいえ、なかにはジャーナリストとしての記者の気概を感じさせてくれるような記事もある。この連載もそうした例のひとつだとおもう。
じつはぼくはこの連載が始まる1カ月半ほど前、4月に広野をひとりで訪れ歩いてきた。恥ずかしながら、そのときは高野病院のことをほとんど知らなかった。
高野病院は常磐線と海岸とのあいだにある高台の上にある。台地の直下には北迫川が流れている。津波はそこを遡上して常磐線の東側一帯を襲った。さらに鉄橋の下をくぐって西側の市街地のほうまで侵入したようである。
写真の手前に、津波によって破壊された青い鉄骨の構造物が写っているが、その背後中央の木々に見え隠れしている白い建物が高野病院である。
さらに遠くに2本の煙突が見え、白い煙を吐いている。東電の広野火力発電所である。この2本の煙突は広野の街のどこにあってもたいがい視界に入り、つねにぼくたちを見下ろしている。不気味な印象を与えてやまない。
JR広野駅からR6(国道6号線)を5-6km北にゆくと、警戒区域の境界となって封鎖線が敷かれている。そこから先は許可なく立ち入りはできない。
そこまで歩いていってみた。検問所の手前まで来ると、何やら放送が入り、たちまち警官3名にとりかこまれた。どこから来た、どこへ行く、何しに来たと、そこそこ丁寧ではあるがけっこう強い調子で詰問された。
警官たちの着ていた防弾チョッキ様の上っ張りには「愛知県警」と記されていた。訊ねてみると、2週間の予定で派遣されているのだという。警官のひとりが「われわれは二週間で帰れるのですけれどね」とくりかえしていた。
広野町は唱歌「汽車」の歌詞にある「広野原」の舞台だと長く信じられてきた。それが歴史的事実かどうかはともかく、広く信じられてきたことは事実である。駅には歌碑まである。拙著『アトラクションの日常』で指摘したとおり、あの歌詞に描かれる風景とその受容の仕方は、近代日本の標準化された「車窓」の風景そのものであった。
いまの広野は「最前線」である。国道のみならず常磐線もここから先は原ノ町まで寸断されている。
震災前の人口5500人。一時はほぼ全世帯が避難していたが、3月に役場が町へ帰還した。先の記事によれば、現在の人口は340人だという。