礼文島を歩いたときの記録を「さんぽのしっぽ」にて公開した。
ところで、この記事を書きながら、つらつら考えたのが、桃岩荘のこと。
桃岩荘には、ぼくは二十数年前に一度泊まったことがある。そのときは、礼文島の西海岸を縦断する「愛とロマンの八時間コース」を歩き、連泊した。今回は泊まらなかったし、そもそも8月の大雨の影響で休業中だった。入口のところからながめてきただけである。
桃岩荘がいま有名なのは、ここが、1970年代的なユースホステルを動態保存した文化遺産のようなところであるからだ。適切な言い方でないかもしれないが「キワモノ」「怖いもの見たさ」というような位置づけであろうか。ヘルパー(スタッフ)が宿泊客と一緒にうたったり踊ったりすることをとおし、独自の「世界」を構築・維持している。
宿泊客はほとんど否応なくそこに巻きこまれてゆく。最初は嫌々でも、気がつくと一緒に手拍子をうち、「落葉」や「遠い世界に」を一心不乱にうたっていたりする。
そんなふうに、桃岩荘的な紐帯(コミュニティといってもいい)の内側に入ることができれば、ほかでは味わえないような強い一体感や、絶対的な承認感覚を得ることができる。逆に、そこに入り込むことができなければ、烈しい違和感や疎外感をいだくことになる。
それは、こうした70年代的なユースに比較的ひろく通有されていた傾向である。桃岩荘は、それをある種つきつめて純化した理念形ともいえ、すでに当時から北海道の旅人たちのあいだでは有名だった。
しかし、このような70年代的ユースの様態は、その「濃さ」や「熱さ」ゆえに、やがて時代にそぐわなくなる。ぼくがユースを利用しはじめた80年代半ばには、この様態はまだひじょうに色濃く残っていたため、いろいろ見聞きし経験もしたが、同時にすでにこの「文化」はもっと上の世代のものであるという感覚があったように記憶している。
90年代以降、70年代的ユースの文化は絶滅危惧種となり、それを売りにしていた宿も少しずつ減っていったようである。桃岩荘は、そのほぼ唯一の例外であるということらしい。
なぜ桃岩荘においてのみ、いまも動態保存が可能であるのか。ぼくにはなんとも言えない。
言えることは、必ずしも「かつての青年」たちの懐古趣味だけで成り立っているのではない、ということだ。毎年確実に新しいファンが付き、新しいヘルパーが供給されている。
じっさい利尻の沓形で出会った青年も、今年はじめて桃岩荘にいってすっかり魅了された、来年はヘルパーをしてみたいと話していた。
だとすれば、桃岩荘に保存されているような70年代的ユースの様態のなかに、たんに「時代遅れ」で片づけることのできないような、今日でもある種のひとびとに強く作用する何かが含まれていると考えることもできるのではないだろうか。
その鍵が、もしかしたら「参加体験型」かもしれない。
70年代的ユースを、60-70年代的な若者文化という文脈で捉えるならば、たしかに現代的なそれとは齟齬をきたしうるものであろう。しかし、そこでくりひろげられている諸行為はいずれも「参加体験型」という性質を重要な柱としたものである。この観点から捉えなおせば、ディズニーランド的な世界につながる側面が浮かびあがってくる。
時代遅れの極致にあるかのようにさえ見られる桃岩荘の様態の肝にあるものは、意外にも、もっとも今日的なものに通底している、と言えるかもしれない。
*初出時タイトル脱落のため追記(141021)。