「データかコピーをください」──卒論・修論の閲覧希望について

毎年くりかえされることなのだが、他大学の学生(もちろん面識は一切ない)からぼくのゼミの卒論について、しばしば問い合わせが来る。内容的な照会というよりは、じぶんの卒論や修論の参考にしたいので、ぼくのゼミの卒論・修論を読みたいというものだ。

ポイントは、そういう類いのメールには決まって「データかコピーがほしい」という意味の文言が記されていることである(今日日の卒論はほぼ100%電子環境で執筆されている)。

これにたいして、ぼくはつぎのような意味の返事をする。データやコピーを送ることはできないが、学科の内規が認める範囲内での閲覧は可能なので共同研究室へ連絡をとってみるように、と。

すると、そのぼくの返信にたいして、問い合わせをしてきた学生からなんらかの応答が帰ってくる──のがふつうのような気がするのだが、実際にはそうしたことは十中八九ない。

たとえ、じぶんの期待どおりの返事が返ってこなかったとしても、わかりましたとか、お手間をおかけしましたとか、相手が答えてくれた以上、それにたいしてなにか返答をするのが通例ではないかとおもう。ところが、ぼくの経験するかぎり、こういうケースではそうした返答さえまず来ない。それっきり一切応答がなくなるのだ。

これって、どういうことなのだろう?

こちらに返事を要求しておきながら、その返事には答えないことにかんしては、たんにその学生が失礼だったということなのかもしれない。

とはいえ卒論を書こうというのだから当該学生は4年次もしくは過年次生なのであり、失礼で済ますにはあまりに幼すぎるような気がする。いったいそれまで大学で何を勉強してきたのかと首をかしげずにはいられない。

しかしながら、より大きな問題は、別の箇所にある。一面識もない教員や学生にたいして、卒論の「データかコピーをください」と唐突に要求してはばからない、その姿勢だ。

じぶんのしていることの意味を、当人はどこまで理解できているのだろうか。

学部学生の書いた卒論といえども著作物であり著作権が存在する。そのような著作物について、いきなりデータをくれと言ってくるのは、尋常な要求ではない。適切な喩えではないかもしれないが、作家志望者が一面識もない村上春樹さんにたいして、参考にしたいからという理由で作品のテキストデータを要求するようなものではないか。

疑いたくはないのだけれど、そこには他人の卒論を流用もしくは盗用しようという意図が、程度の差はあれ含まれている可能性を考えざるをえない。

むろん問い合わせしてきた他大学学生のうちの何人かは、もしかしたら、ほんとうにまじめに参考にしたいと考えており、ただ世間知らずゆえに非常識な依頼をしてしまっていることに気づいていなかっただけかもしれない。だがそれなら、ぼくの返信にたいして、なんらかの応答をするだろう。それとも、それさえできないくらい世間知らずだったということか。

というわけで、ぼくのゼミの卒論・修論を参考にしたいという他大学の学生さんへ。本学の規定および当学科の内規の範囲内であれば対応可能です。当然ながら、データをおわたしすることや、コピー機による複写は認められません。その点をよくご理解のうえ芸術学科共同研究室へ連絡してみてください。