嘘つきはむずかしい――ウソ・メディア史

前回はエイプリルフール・ネタについて書いた。その続き。

エイプリルフールは一年に一度だけ嘘をついても道徳的に咎められない日、ということだそうだ。「これは嘘ですから」という安全な枠組みが保証されている嘘なら許容されるということであり、それはそれで、嘘というものの力を半減させているような気もする。いや逆に、嘘のもつ力を知っているからこそ、あえて「一日限定」の制約を課していると見るべきか。

人間もちろん正直であったほうがいいのだろう。けれど、だからといって「嘘は一切許されるものではない」などと主張しはじめるのもナイーヴすぎる。事はそれほど単純ではない。嘘は嘘で大事なのだ。

嘘とは、なんらかの裏づけをともなわず、むしろそれに反するような言明であると捉えるなら、実際ぼくたちは日々しばしば(もしくは始終)嘘をついている。いいかえるなら、ぼくたちのコミュニケーションにはさまざまな種類の嘘がさまざまな仕方で分離しがたく浸透している。もし仮にこの世の中から一切の嘘を消去したのなら、ひととひととのあらゆる関係は成り立たなくなってしまうだろう。

それゆえ嘘をつくこと自体はじつに容易い。誰であれ日々の生活のなかで自然にそうした言明をおこなっているのだから。ところが「あえて」嘘をつくとなると、意外に簡単ではない。とくにそれがおもしろい嘘であれば。

以前に大学一年生向けの授業をもっていたときに「ウソ・メディア史」という課題を出していた。実際には存在しない架空のメディアを考案して、その歴史をいかにももっともらしくでっち上げるというものだ。映画『スキージャンプ・ペア』のおもしろさにヒントを得たものである。

「ウソ・メディア史」では、課題の趣旨からして、何をどうでっち上げてもいい。ドラえもんの未来の道具みたいなもので、自由に発想してくれればいいわけだ。だが実際に提出されたものを見ると、がんばって考えようとしたことはわかるものの、アイディアとしてはありがちなものが大半だった。みんな正直といえば正直なのだ。

中にはちょっとおもしろそうなアイディアもあった。ところが残念なことに往々にして、語り口が適切でないため、みずから首を絞めてしまっていた。つまり「これ、おもしろいでしょ」と当人がはしゃいでいるような書き方をしてしまっていたのだ。

大きな嘘をうまくつくためには、いくつかのポイントがある。アイディアにおいては、できるかぎり異質なものをぶつけあわせて、ありえないほどぶっ飛んでみせるべきであり、それを語り口においてはこれ以上ないというくらいそれらしく、緻密でリアルに示してみせることにある。詐欺師とよばれるひとびとの手口を考えればわかるだろう。よくできた映画や小説などを想起してくれてもいいし、ぼく流の言い方として「ディズニーランドを見よ」といってもいい。

ひとは小さな嘘なしではやっていけない。そのくせ、大きな嘘をつくのは意外にむずかしい。どうやら、そういうことらしい。