鳥海山とワンタン麺——春の庄内散歩旅その4(最終回)

庄内散歩旅その3では酒田市内を歩いた話を書いた。そのつづき。

翌朝、鳥海山がきれいに見えた。鳥海の山容は、ぼくがもっとも好む姿のひとつである。とくに春と秋のそれは筆舌に尽くしがたいうつくしさだとおもう。

山居倉庫へやってきた。昨晩の「こい勢」の大将は写真が好きらしく、ここの雪景色の写真が店内に掲げられていた。

山居倉庫は明治時代にたてられた米の貯蔵庫だ。手前が土産物屋、いちばん奥は庄内米歴史資料館。それ以外の区画は、いまもJAが使用している。現役の倉庫なのだ。

土産物屋の奥にも「ミュージアム」という一角があったが、そこはまあ観光用である。しかし奥にある庄内米歴史資料館はなかなか勉強になる施設だった。若干の入場料は必要だが、その値打ちはあるとおもう。

内部はかなりの大空間である。ここに床から天井までびっしりと60kg入りの米俵が積み上げられるとのこと。

見上げると、梁組みがこんなふう。

倉庫の建物は基本的に土蔵づくりである。屋根は二重構造で、屋根の上にもうひとつ屋根が載せられている。

外壁の大部分も二重である。土蔵を内殻として、その外側に板壁が貼られている。間に空気層をとって断熱し、外気温に左右されにくいようにできているのだ。

西側には西陽を防ぐためケヤキが列植されている。

神社があった。倉庫創建時の明治期にたてられたものだという。いま倉庫をたてようとするとき、神社をつくって祈願するという感覚はどれほど残っているだろうか。

川にむかってスロープが切られている。戦前の運送手段は舟運が主であったため。いまはほとんどトラック輸送に切り替わったが、わずかに北海道向けだけ船で出荷されているとのこと。倉庫入り口から直角に生えるようにして屋根がさしかけられていたが、最盛期にはそれらは川のほうまで延々と伸びていたようである。

その川にかかった橋をわたり、少し歩くと本間旧本邸がある。受付をしてくれた係の女性がそのままガイドをしてくれた。

内部は撮影禁止だったような気がするけど、はっきり覚えていない。とにかく写真はなし。

南半分が武家造、北半分が商家のつくりという折衷様式である。戦時中は陸軍に接収され、戦後は公民館として開放されていたという。

本間家は酒田の大富豪で、それが第二次大戦後の農地改革のときにどんなことになったのかという話を、ぼくは子どものころNHKスペシャルで見て、ひじょうに興味をもったことがあった。

受付の脇に巨大な松があった。樹齢400年だとか。

松の表面の模様である。雨のあたる面と陰になる面とで色がちがう。後者は灰色がかって表面もつるつるしている。

ガイドしてくれたおねえさんが、酒田はラーメンも有名なんですと教えてくれた。それで近くの「満月」というお店まで歩いていった。

名物のワンタン麺(+煮たまご)。和風のだしがよく効いていて、わりにさっぱりめの味だった。

歩いてもどる途中にあった学校。体育館の形がユニークだ。

しかしどうやらようすが変である。がらんとして寂しい。すでに廃校になっているらしい。

さて、そろそろ帰途につかねば。

酒田出発は1305。高速道路は極力つかいたくないので、日が暮れるまでは下道をゆく。

まずはR112で月山を越える。雪はまだたっぷり残っていた。

大江からR287で白鷹を経由して米沢へ。

ここから白河までは往路と同じルートだ。R121で大峠を越えて喜多方へ出、会津若松から天栄村を抜ける。白河中央ICからは東北道にのって帰った。

酒田を出発して以来、途中止まったのはトイレ休憩二回、給油一回だけ。ほぼノンストップだ。この間ずっとディフェンダーと対話しているみたいな感覚である。

市川帰着は2130。酒田から8時間半で帰ってくることができた。

この項おしまい