映画『ファースト・マン』は、まるで盛りあがらないスペクタクル映画として興味深く観た。
題材は、人類初の月面着陸を達成したアポロ11号のニール・アームストロング船長である。恰好のハリウッド的題材のようにおもわれる。だから、これまで映画化が実現されなかったというのはにわかに信じがたい話だが、この映画を観るとその理由がわかる気がする。
「成功」はドラマになりにくいのだ。
アームストロングはどんなときもつねに冷静だ。もちろん困難はつぎつぎ立ちあらわれるのだが、アームストロングはそれらをつねに淡々と対処し、結果的に何事もおこらず、任務は達成される。そして日頃から、そのための周到な準備を怠らない。アポロ11号のミッションの成功には、無数のひとびとの膨大な努力が不可欠だったことはいうまでもないが、アームストロングのこの尋常ならざる克己心も不可欠な要素だったにちがいない。
ただ、そうした側面をそのまま映画的ドラマにするのはむずかしい。
むしろ同じアポロ計画を題材にした『アポロ13』のように、「失敗」のほうがドラマを構成しやすいだろう。不測の事故、つぎつぎ襲いかかる障害、絶体絶命のピンチ、知恵と団結力でそれらを乗りきり、なんとかゴールに達する——。起伏にとみ、わかりやすく正統的なドラマだ。そして観客は、ハラハラドキドキの大スペクタクルを愉しむことになる。
もしアポロ11号の物語で同じようなアプローチをとっていたのなら、どうなっていただろうか? 下手をすれば、二昔(もっとか)前の God Bless America 的(アメリカ万歳的)なバカ映画になってしまう怖れもあっただろう。
デイミアン・チャゼル監督は映画のことをよくわかっているインテリなので、そんな道は選ばない。
焦点をあてるのは、「成功」の背後にあった、「失敗」とまではいえないまでも、ある種の「うまくいかなさ」や「欠損」だ。すなわち本作品で興味深い二重性は、外装は国家的もしくは人類的規模の一大事業のスペクタクルでありながら、その中身にあるのは、ニール・アームストロングという人間が、その鋼の精神力の内面にかかえる欠損や、それに由来する癒やしようのない悲しみという点である。
アポロの映画だから盛りあがるだろうと観客はどこかでスペクタクルを期待して観にゆくわけだが、意外にも肩すかしをくらうことになる。盛りあがりそうになっても、あえてその手前で止めてしまう。過酷なトレーニングの場面も、打ち上げの場面も、月への飛行場面も、そして肝心要の月面着陸の場面も、あっけないまでに、そっけなく描かれる。
そのすれちがい方が、この映画らしい。そして、そのすれちがい方こそが、「成功」のひとつの描き方であり、ニール・アームストロングというひとりの人間を端的にあらわしてもいる。
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