パニックじゃない

たぶんパニックなんかじゃない。少なくとも、いまのところは。

COVID-19(新型コロナウイルス感染症)感染拡大抑制のための自粛要請に関連して、東京でもパニック買いがあったというような報道がたびたびなされてきた。都知事や首相の会見直後に、一部のお店に長い行列ができたことや、商品棚がからっぽになっったケースがあったこと自体は事実なのだろう。そうした事実にたいして、一部の報道は、パニック買いだとラベリングをする。だが、そのラベリングは適切ではない。

パニックとは、強い恐怖や不安によって陥った混乱状態のことをいう。国語辞典で「パニック」の語を引けば、必ずそんな意味のことが書いてあるはずだ。では実際問題として、東京および隣接諸県において、辞書が説明するような恐慌状態にある人間を、誰か見かけたことがあるだろうか? おそらく、ひとりもいまい。

多くのひとびとは、ふつうに落ち着いている。落ち着いて冷静である。落ち着いて冷静であるがゆえに、コロナ情勢の推移を考え、万が一にそなえて買い物にゆく。そして、万が一にそなえて、ふだんより少し余分に買っておく。あるいは、ふだんならあまり買わないかもしれない保存食品なども買う。これは、近い未来にたいする不安に対処するための、ごくふつうの、いたって合理的な行動である。

マスクやトイレットペーパーのときのように、買い占めて転売でひと儲けを企む輩などもいよう。それも、世間の災難はじぶんの稼ぎ場と心得ている商売人なら誰もが目論むことではないだろうか。つまり、そういう立場や考え方のひとにとっては、転売目的の買い占めはごく合理的な行動なのだ。

では、各自が合理的な行動をとっているにすぎないのに、なぜ報道においては「パニック」となってしまうのか。そこには報道する側の認識の枠組みの問題が関係している。ひとつには、お店の行列や空の商品棚をパニックと結びつける以外の理解可能性を考えないという硬直化した発想である。また、パニックとして扱ったほうがニュースバリューが高いと考えてしまう業界固有の思考様式もあるだろう。

しかしながら、ぼくはおもうのだ。せっかくなら、報道にあたって、つぎのような視点をもっと考慮してくれてもいいのではないかと。

すなわち、重要なのは、個人にとって合理的な行動が、社会のレベルにおいても合理的とは限らないということだ。「万が一にそなえて念のために」ひとつ余計に商品を買うという個人の行動自体は合理的であったとしても、それが短期間に集中して折り重なってゆけば、結果としてその商品の通常の物流容量を逼迫させ、欠品をまねいてしまうことになる。

そうならないようにするための対策は、とくにむずかしいものではない。必要なものを必要なだけ買うにとどめればよいだけだ。「万が一のためにもうひとつ」という気持ちになること自体は、誰であれ自然なことだが、上のようなことを知識として知っていれば、余分な商品を手にとりそうになったときに「いやいや無理して余分に買う必要はないのだ」とじぶんに言い聞かせることができる。3.11のときと異なり、今回は社会基盤(インフラストラクチャー)が毀損されたわけではないから、生産も物流も滞ってはいない。

こうした視点を記事に含めたとして、多くのアクセスを集めることにはならないかもしれない。けれども、パニックを問題視するようなポーズをとりながら結果的にパニックを煽ってしまっている既存の記事群よりは、少しは建設的だとおもう。