強権的態度と反知性主義

現政権の特徴のひとつとして、「強権的」と表現してよいだろうその政治手法ないし態度があげられる。具体的には、法の正当な手続きを無視し、そのときどきの自己の都合で恣意的な判断をしたうえで、その理由を説明せず、あわせて異論を封殺してはばからない態度である。

この強権的態度を根底で支えているのは、反知性主義である。強権的な態度は、知的なものに信をおく態度とはけっして相容れない。なぜなら、前者はつねに「ある特定の見方」にたいする称賛と服従をまわりに要求するのにたいし、後者はつねに「異なるものの見方」を探ろうとするからだ。

いま世間で話題になっているらしい学術会議任命拒否事件でも、根底にあるのはこの反知性主義だろう。そのあらわれとして、強権的態度がある。

この事件においても、首相をはじめとする現政権の大臣たちは、けっして理由説明をしない。もちろん、公に説明できるような理由が存在しないから、しないのだ。そのことは、ちょっと気の利くひとならだれでもわかっているだろう。首相自身もよく承知しているはずだ。そうでありながら、批判されてもはぐらかし、無理筋と知りながら強硬に言い張りとおす。この強気の張り手でここまでのしあがってきたという成功体験にも支えられているだろうし、大衆なんて所詮そんなものだという見切りもあるだろう。さらに、それだけではなく、論点を学術会議の「改革」などというまたべつの方向へとズラしもする。むろん意図的に、だろう。あたかも学術会議が既得権益集団かなにかであるかのように印象操作を仕掛けているのだ。

なお断っておくが、べつに学術会議をすばらしい組織だと主張するつもりはない。ぼくもいちおう学者の端くれであるとはいえ、メディア論などという辺境中の辺境にいる身である。学術会議のような王道中の王道的な組織とは、ほぼかかわりはない。そしてその辺境からはるかに遠望するかぎり、学術会議の近年の活動の実相は霞みがちで、ステートメントにはあまり感心しないものも見うけられる。しかし、それはそれ、これはこれである。

見たいものだけを見たいように見、聞きたいことだけを聞きたいように聞く。それが反知性主義に共有される姿勢である。むろん現実には、そんなことは成り立たない。みずからの欲望や願望は、実在の世界と齟齬を来すに決まっているからだ。そのとき、自己の側を修正するのではなく、実在の世界のほうを、みずからの認識にあわせて「再制作」しようとする。この転倒した図式こそが、反知性主義から強権的態度を生みだすのだ(拙著『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』参照)。

強権的な態度と反知性主義は、現政権のみならず、もとより前政権から共有される顕著な傾向性である。そして、それは前・現の両首相の気質においても共有される傾向性であるだろう。

しかし、ふたりの首相にはちがいもある。前首相に濃厚だった「からっぽ感」が、現首相にはない。代わりに現首相には、テレビやネットの映像をとおして接するかぎり、全身から強烈に発散される念のようなものが見られる。その念は、ただ強烈なだけではない。きわめて高い粘度をともなっている。念の源にあるものは容易に想像がつく。ルサンチマンである。

「からっぽ感」全開の反知性主義的人物を首相にいただくのは、むろん危なかしい。しかし、ルサンチマン全開の反知性主義的人物が首相に座している状態は、べつの意味でまた危険であり、怖い。慎重かつ峻厳たる観察を要するものとおもわれる。

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