ユーザーレビューばやりである。何か観たり聴いたり読んだりしようとするとき、ブログなり店頭のポップなりを参照する。本を読むなら書店員のお薦め、映画ならヤフーのユーザーレビュー、家電製品なら価格comといったぐあいに。
ユーザーレビューはたいへん役に立つ。有用だ。読者・観客・視聴者・ユーザーといったひとびと──まとめていえば、ようするに消費者だろう──の目は肥えているから、複数のレビューをチェックすれば、それなりの作品かどうか、だいたい見当がつけられる。少なくとも、大ハズレの超駄作のドツボにうっかりはまり込んでしまうような、最悪の事態だけは避けられる。だから、なにかの本や映画や展覧会などに興味をもったら、まずこの手のレビューサイトにくまなく目をとおし、じぶんが買ったり足を運んだりする値打ちがあるかどうかを厳しく吟味する。
そうした情報が、ごくふつうの人間でも事前に大量に収集できるのは、なんといってもネットのようなメディアが普及したためだ。いまやわれわれは、人類史上もっとも豊富な選択肢をもち、どの選択肢が最適かを判定するために必要な情報を大量に収集可能なインフラストラクチャーを有している。
にもかかわらず──先日打合せの最中に、さる新聞社の記者の方がぽつりと口にした。「そうやって情報をたくさん集めてチェックして選んでも、なぜか心底満足することができないんですよね」。断っておくが、このひとは記者としてたいへん優秀だ。知識や見識が不足しているがゆえに選択を見誤っている、というわけではない。
ぼくの考えでは、それは「コストパフォーマンス思考」にとらわれているからだ。
「コストパフォーマンス思考」とは、ひとつの思考の型、ないし傾向性だ。個人的に勝手にこう名づけて用いておる。この思考型の例外であるひとは、おそらくきわめて少ない。むろんぼく自身もこの思考型に首までどっぷり浸かっている。
この型にはまり込んでしまったひとの思考は、あるひとつの明確な動機によって動かされている。「損させてくれるな」ということだ。投じたカネと時間に見あう結果がほしい。選択を無駄にしないためにも、その結果を先取りして保証してほしい。そういうふうに、目の前に提示された選択肢を見て考える。
もちろん、たいていのひとにとって予算と時間はつねにかぎられている。せっかくなけなしのリソースを投じるのだから、ハズレを引いたら無駄になる。それだけは避けたい。そう考えたとしても無理なし、というべきかもしれない。