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「他者」としてのiPhone

iPhoneの発売日。昨夜は、表参道あたりは行列で大変なことになっていたようだ。「祭り」にご参加のみなさん、おつかれさまでした。

テレビや新聞でもWebサイトでも、この話題で引きも切らない。テレビや新聞のとりあげ方は、どうもちょっとピントはずれな印象が否めない(ぼくが見たなかでいちばんまっとうだったのは、意外なことにNHKのニュースだった)。

のみならず、いわゆる日本の「大手マスコミ」の論調は、これを一種の「狂想曲」として片づけようとしているように見受けられる。騒ぎを物珍しげに紹介しつつ、世界で爆発的に売れている最先端の「端末」の登場として、構図をむやみに矮小化する。そして最後に、でもワンセグもデコメールもおサイフ(なんちゅうネーミングだ)もないから、日本ではさほど売れないという見方もありますよと釘を刺す。皮相的で冷淡というか、小意地がわるい。

それなりに年季の入ったMacユーザーとしては、「大手マスコミ」のこうした扱いにはすっかり慣れている。Windows95以降、90年代後半における、日本の「大手マスコミ」によるアップル関係の報道がどんなものだったか。

だが、同じ意地わるさといえども、当時といまとでは、その底に透けて見える感情はだいぶ異なっているだろう。

90年代のそれは、死人に鞭打つというか、敗者にたいする仕打ちである。そのとき日本の「大手マスコミ」(および日本型企業社会的オッサン思考の者たち)は、Win対Macのシェア争いととらえ、みずからをその勝者の側に寄り添わせた。

いまは、ちがう。ひと言でいえば、かれらを突き動かすのは、みずからが否応なく敗者の側に突き落とされそうな、暗い予感である。その不安な怖れは、このなんだかよくわからない「舶来」のケータイ──iPhoneはもはや単純に携帯電話とはよべまい──にたいする驚きと警戒心、嫉妬、焦燥といった諸感情が絡まりあったなかから生まれている。

だから当然の帰結として、iPhoneや、それを発売日に手に入れるために深夜の行列さえいとわぬ者たちを、じぶんたちとは異なる世界に棲む理解不能な「他者」として表象することになる。そうすることによって、誰よりもじぶん自身に言い聞かせているのだ。「怖くない、何も変わりはしない」と。

さて、ぼくはといえば、行列は大嫌いなうえに、天の邪鬼だ。渦中のiPhoneではなく、iMacを注文した。ほとんど10年ぶりのデスクトップ購入である。来週到着の予定。