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映画『マン・オン・ワイヤー』

かれが歩こうと決めたのは、地上411m。マンハッタンにそびえる二本のスカイスクレイパーのあいだにワイヤーを張る。その上で綱渡りしようというのだ。ひとりのフランス人綱渡り師に取り憑いたこんな「妄想」が実現されるまでの過程を、本作品はテンポよく追う。

もちろん違法だ。正規の手続きを経ていては許可はのぞめない。警備員に変装し、ジャーナリストを装い、さまざまな手段で侵入しては下見をくりかえし、計画を練る。しかしかれらの計画は、綿密なようでいて、穴だらけだ。仲間をつぎつぎと抜け、かき集めてきた新参者は、いざ現場を踏むと、怖さに堪えかね逃げだす始末である。それでも計画どおりワイヤーを張り、夜明けとともに超高層の綱渡りは決行される。

そこは東京タワーの突端よりまだ80mも高い。困難、無謀、無意味、愚かしくさえある。非現実的なその「妄想」は、だが主人公の綱渡り師フィリップにとっては自然で必然である。それだけにこの作品は、ドキュメンタリーというより、ドキュメンタリーの体裁を借りた壮大な法螺話のような印象をもたらし、ゆえに寓話として機能する。

寓話の中心となるのは、WTCの南・北棟のあいだを綱渡りするフィリップの姿をとらえたロングショットである。張られたワイヤーは細く、視認しがたい。だからその上を歩くフィリップは、まるで宙を歩いているかのようだ。いや、それを比喩と理解してはならない。かれが歩いてみせたのは、じじつ高度411mの宙空なのだ。

ワイヤーを支えたツインタワーは、綱渡り決行30年近くのちに、予想もできない仕方で崩壊する。周知であるはずのこの事実は、しかし作品中ではひと言も触れられない。むろん意図的だろう。

ここには二重の不在が認められる。フィリップの超高層宙空歩行を可能にした二本のバベルの塔の不在と、その事実にかんする言及の不在。それらは誰もが知っている空白であり、それゆえにこのうえなく雄弁である。ローワー・マンハッタンのあの空には、いまではフィリップの足跡だけが宙に浮かんでいる。

だからかれの行為は、二つの極を、文字どおり綱渡りによって結びなおし、両者の区分を無効にしてみせたのだといえる。その意味で、ひとりの綱渡り師の「妄想」的行為は、それが何かの代理をまったく意図しない「妄想」であったがゆえに、英雄的であった、といえるかもしれない。じじつ警察に逮捕されたフィリップは、その違法行為にかかわらず(あるいはそれゆえに)名声を獲得する。もはやただの綱渡り師ではない。「芸術家」だ。かれは綱渡りをみごとに渡りきったのだ。

けれども綱を渡れるのはひとりだけ。ふたりは渡れない。フィリップは相応の代償を支払わねばならなかった。それは、それまでかれを陰でささえ、さまざまな困難を乗り越えるのに不可欠な存在だった仲間たちである。かれらもやはり逮捕されるが、フィリップとは対照的に、米国を追われる。かれらの共同体は、「夢」という「妄想」の実現を目的に据えることで生まれ、育くまれ、鍛えられた。そして目的の達成された瞬間に飽和して、一気に解消された。

画面にあらわれる今日のフィリップは、いつ果てるとも知れず、ただただおしゃべりをし続ける。その相貌は、自身の共同体をみずから生贄として差しだした経験をもつ者だけにしか見出されない種類のものだ。陽気であり、才気にあふれ、そして絶望的なまでに凄惨。そのことを、わたしたちはつくづく思い知らされる。