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語りはじめる学生たち

毎度おなじみデジタルストーリーテリング。毎年2年生を主対象とした授業の後期で実施している。今年もまたその季節が来た。

デジタルストーリーテリングでは、スチール写真をつかってスライドショーみたいな映像作品をつくる。ただし、よくある映像制作ワークショップのように、テレビや映画の真似事をすることが目的ではない。たしかに受講生は結果として制作技法を習得することになるが、あくまで副産物である。主眼は、映像制作の専門家ではないふつうのひとびとが、いかにして映像をとおしてみずからを物語るか、ということにある。

ぼくの授業でもこの考えを踏襲している。企画の条件は、どんな題材でもいいが、いまじぶんが切実に語らなければならないこと、である。

欧米の実践者たちの話を聞くと、ひとびとはあらかじめ言うべきストーリーをかかえており、ただマスメディア中心の社会ではその回路がなかっただけなのだということが前提されている。

ところが、ポストモダン日本では、そう簡単にはいかない。学生たちの多くは、意識的あるいは無意識的に、じぶんが語るべきことを胸の奥深くに格納し、幾層ものシールドでコーティングしてしまっている。もっとも大切なものは、けっして周囲に悟られてはならず、表面上はひたすら、仲間内のなかでポジションを維持するための「キャラ」を演じていなければならないからだ。

問題は、そうしているうちに、隠していたはずの「語るべきこと」が何だったのか、当人にもよくわからなくなってしまうことである。そんなものは最初から無かったのかもしれないとさえ、おもわれてくる。

だから、「切実に語らなければないこと」などといわれても、すぐに見つけられるわけがない。10月末からアイディアの発表を始めたが、案の定、最初はいかにもステレオタイプなものか、あまりに浅いものばかりだった。そこで差し戻しとなる。

本当のスタートは、そこからだ。

どうやらそう甘くはないぞと気づいた学生たちは、ようやく少しずつ本気で考えはじめる。つまり、じぶんの語るべきものを分厚く覆っているコーティングを一枚一枚、そうっと剥がしてゆくような作業をするのだ。その過程は誰であれ、単純に愉しいとはいえない作業であろう。切実なことほど表に出したくないのだと訴える学生もいれば、どうやってもじぶん自身のことをうまく考えられない学生もいる。それでも、話しあいを重ねるにつれて、学生たちは少しずつ、「ものを考える」ということをし始めるようになってゆく。

ここ2-3週は、わざわざ白金のぼくの研究室まで相談にやって来る学生も少なくない(授業は横浜キャンパスで実施)。なかには、ぼくが会議などで留守にしているうちに研究室に現れたところ、待ちかまえていた4年のゼミ生につかまってしまい、グサグサと指摘されて、へこんで帰っていったりした学生もいたようだ。あとでゼミ生たちは、2年生から「ゼミ生は怖かった、先生はやさしいのに」といわれたといって首をかしげていた。「どうしてそうなっちゃうんだろう? 逆のはずなのに。変だなあ」などとぼやくのである。

かれらゼミ生たちも2年前に同じ授業を受けている。そのときはいまの2年生と同じようなものだった。いま先輩として、かつてのじぶんたちと同じようなところで引っかかったり悩んだりしている後輩たちにアドバイスをするということは、それ自体が大事な経験なのだ。

努力のかいあって、2年生たちの発表は、先週あたりから、かなりしっかりとした内容になった。なんだか急に、それぞれの語るべきことを語りはじめた、といった感じである。

かれらの話のほとんどは、とくに珍しい経験というわけではなく、ごくごくふつうといっていいようなものである。しかし、それぞれくっきりとした輪郭と色合いをもち、まさに他を持って代え難いという意味でユニークなものとなっている。かれらがそのようにして、じぶん自身について話はじめる瞬間に立ち会えたとき、この授業をやっていてよかったなとおもう。

もっとも、いまの段階ではまだアイディアを確認しただけだ。それがそのまま作品の質を保証してくれるわけではない。ここで安心せず、最後までその意識を保って、各自それぞれ納得のいく作品をつくってほしい。