学会ふたつ

週末は学会に行かなければならなかった。土曜は記号学会(駒場)、日曜は出版学会(紀尾井町)である。前者は「〈記号〉としてのテレビ」ということで、テレビの映像コンテンツを記号論の対象としていくための戦略と方法が論じられ、興味深いものだった。基調講演のなかでとくに印象に残ったのは、テレビ映像を読み解くためには、「ジャンル」という「約束」から行わなければならないというフランソワ・ジョスト氏(パリ第三大学)の指摘である。つづいて行われたラウンドテーブルからも多くの示唆をうけた。増澤洋一さん(千葉工業大学)による「プロジェクトX」の分析は、テレビ映像はどのくらい「言語」であるかという実証的な研究、原宏之さん(明治学院大学)のテレビ・コンテンツの「外部」をいかにコンテンツ研究に取り入れていくかという議論、和田伸一郎さん(大阪医科大学)はテレビのメディア=「形式」として「テレビ映り」という水準を設定して話をされた。「形式」はいくつかの水準に腑分けして考えていく必要があるだろうが、もしマクルーハンがいうように「メディアはメッセージ」なのだとしたら、それはメディアの水準もまた記号論の対象となりうることを含意してもいる。それが、ここで発表されていた「コンテンツ研究」とどのようにつながっていくのか、その見通しについて知りたいところである。

日曜の出版学会のシンポジウムは「本格化する出版メディアの電子化と出版者の役割──迫りくる変化:ケータイ、コミック配信、巨大ネットメディア」と題されたものだった。出版社の現場で電子化を担当しているひとたちが登壇し、電子化にかんする現状の報告をされた。ちょうど昨冬、情報学環の紀要にグーグル・ブック・サーチ(グーグル・プリント)にかんしてちょっとだけ書いたところだったので(「グーグル切断」)、日本の出版社の担当者が一様にグーグルやアマゾンがここ数年すすめている既刊書の版面をスキャンして公開することへの警戒感をいだいているのが印象的だった。グーグルにせよアマゾンにせよ、いわゆる出版社的(まして日本の出版社的)なテイストとはほど遠いから、無理からぬところだろう。終了後、登壇者のひとりに訊ねたら、最終的なポイントは「グーグルはコンテンツをつくっていない」ことにあるということで、違和感は相当大きいようすだった。これは個人的な推測にすぎないが、しかしおそらくは、コンテンツ云々というよりも、グーグルのやり方が日本の出版産業の慣行からかけ離れていることに最大の原因があるようにおもわれた。その意味では、ここでの抗争は文化摩擦である。

シンポジウム全体についていえば、出版現場の話はそれとしてよかったのだが、全体として終始議論が出版産業のなかの水準にとどまっていて一向に拡がらず、けっきょく出版産業の身の処し方みたいな話(出版社の新しいビジネスモデルが必要、みたいな)に落ちていってしまうのは、予想されたこととはいえ残念なことだった。そうした話は、いうまでもなく産業としては重要だろう。しかし、であるのなら、なにも学会でなく業界の勉強会で語られるのだっていいのではあるまいか。別に浮世離れした学問を論じたいということではない。出版の電子化の話はたんなる業界の話題のレベルだけで考えていても十分ではないということがいいたいだけだ。グーグル・ブック・サーチという構想が志向するのは、つまるところ、これまで出版産業が独占的に保持してきた「編集」(あるいは「価値判断」)という権益を解体することにあるのであり、だからといって、「編集」を市民に開放するというようなハッピーな話なのかというと、それでは済まないところに論点があるのだとおもう。テクノロジーにかかわるポリティカルエコノミーという観点からメディアの変容を見ていくという視点があってもいいはずだ。理論的(という言葉はあまりつかいたくないが)パースペクティヴが欠けているということだろうか。