舞台『Song & Dance ハムレット』(栗田芳宏演出、宮川彬良音楽、舘形比呂一振付、サンシャイン劇場)と映画『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』(馬場康夫監督)をはしごした。なんちゅー取り合わせかと叱られるかもしれないが、これはこれでいいのだ。
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まず『ハムレット』から。
安寿ミラがハムレットを演じるこの作品の上演はなんと三度目になるのだが、ぼくは初見。8人の役者がさまざまな役割を果たし、しかも場面が少しずつ重なりあいながら展開していく。といっても難解なところはない。序盤は少し台詞が聞き取りにくかったところもあったが、旅芸人一座が登場するあたりからよくなった。とくにトランクの使い方にアイデアがある。作曲の宮川自身がステージ下手にピアノや銅鑼をしたがえて坐し、演奏する。芝居と音楽がくねくねと絡まりあう。
役者8人は芸達者揃いだが、とりわけガートルード役の舘形比呂一は、王妃・妻・母・女の機微を演じて見事だった(歌舞伎ふうの見得を切るサービスまである)。とおもったら、このひとが振付も担当していることに気づいた。 “Song & Dance” を謳っているが、ミュージカル的な意味でのダンスというより舞踏に近い動きかもしれない。
平日マチネの客席は妙齢の女性の集会場である。観劇中にお菓子を食べるのはまあいいとして、ポリ袋をパリパリさせるのだけは勘弁してほしい。
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ついで『バブルへGO!!』。ちょっと長くなる。
もしかして面白かったらどうしようと一抹の不安を抱えながら観に行ったのだが、杞憂だった。標榜している「タイムスリップ・ラブコメディ」の明るく楽しげな看板とは裏腹に、うら寂しい映画である。
設定。「不動産関連融資の総量規制」の通達をやめればバブルは軟着陸できたという設定の有効性自体が、そもそも疑問である。バブル景気とは、通達一本さしとめてどうにかなる程度の問題だったのか。またバブル崩壊のことばかり気にかけていて、バブルがどのような要因と過程で発生したのかということにまったく言及されないのも理解しがたい(製作者たちにその意識が欠如しているのだろう)。しかも、そのバブルと「現在」の広末涼子の境遇がどう結びついているのかが不明瞭だ。ただ薬師丸ひろ子の母親の行方不明という点だけで広末を過去へ送りこむ必然としているわけだが、いかにも説得力に乏しい。
技巧。タイムトラベル物の定石どおり物語構成を採用しているものの、端的にいえばアイデア不足であり、構築力に乏しいといわざるをえない。小物をつかって伏線を張っているのだが、弱いか必然性に乏しいかのどちらかで、しかも淡泊である。アクションもダンスもただカットを細かく割っているだけ。全体に見られるテンポののろさとユーモア感覚のズレとが相まって、劇的な効果がほとんど出せていない。直接の下敷きにしたとおもわれる『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が、これでもかというくらいアイデアを詰め込んであったのと対照的である。
風俗。タイムトラベル物の定石のひとつは、過去の風俗をいかにそれらしく示すかという点にある。本作品でもこの点が重視されていたのは明らかだ。バブル末期1990年3月時点の風俗として、ワンレン、ボディコン、化粧、ディスコ、ポケベル、卒業記念パーティ、タクシー拾い、テレビCM(鉄骨娘など)などが描かれる。だが、それは資料を見ればすぐわかるようなことで、ただ描かれるだけ。なんの批評性もない。先に授業で同じ馬場監督の『私をスキーに連れてって』(1987年)を観たとき(個人的にはこの映画にはいくつもの美点があるとおもう)、学生が「オフィスで、みんながタバコをスパスパ吸っている」ことを指摘していたものだが。
考証。1990年なのに「君の瞳に恋してる」が流れる。これでいいのか。フランキー・ヴァリの名曲をボーイズ・タウン・ギャングがカバーしたこの曲はエンドタイトルでもくり返され、作品中ではバブル時代を象徴する位置が与えられている。しかしこの曲が発表され、やたらにディスコでかかっていたのは1982年のはず。つまりバブル以前なのだ。もっとも六本木のディスコに限っては1990年に至っても流行っていた、という事実があるのであれば話は別だが。
認識。本作品は、「バブル」とは基本的に経済、つまりカネの話だという認識にもとづいている。もっと遊び暮らしていたかったという願望だけが、性懲りもなく提示される。この映画を貫くのは、バブルへの強烈なノスタルジーである。その背後には、文化の大量消費時代の再来を願う平成バブル志向が透けて見える。バブル期の認識枠組みと発想そのままで、当時とは大きく異なる社会となってしまった2007年の日本に現れたタイムスリップ者のようだ。当然かれらの価値観や行動はどうしようもなくズレている。「テレビ」なるものの描かれ方とこれが物語上はたす役割は80年代そのままであるし、最後に示されるミッシェル・ゴンドリーふうの画など、もはや笑うに笑えない。ただ、うら寂しくもの悲しい風が吹きすぎていくばかりだ。
バブル時代とは、たんに昭和末期から平成にかけての日本経済の過剰な膨張を意味するだけではなく、近代日本がつくりあげてきたひとつの社会の掉尾を飾る狂乱でもあった。原宏之は、バブル時代初期に切断面を見、八〇年代末のバブル最盛期を「ポスト戦後」の始まりと位置づけている(『バブル文化論』慶應義塾出版会、2006年)。
以上いささか欠陥ばかりを指摘しすぎたかもしれないが、じつはこの映画は観る者に大きな効用をもたらしてくれる。のちにバブルとよばれることになるあの時代にを有効に捉える視座を、わたしたちは今日にいたるまで得てはいないのだという現実を突きつけるという効用である。