グーグル切断

7月5日、グーグル・ブック検索が、ついに日本語版の運用を開始した。同サービスは、米国では2004年に開始されている。書籍の全文検索を可能にするというものだ。

グーグル・ブック検索は、出版や書物という観点からすれば、決定的である。その登場以前と以後とで、出版あるいは書物というもののあり方やイメージを決定的に変えてしまう可能性を含んでいるからだ。「変えてしまう」というのは、はっきりいえば、「解体」だ。むろん単純な良し悪しの問題ではない。

おもえば、これまでに存在した出版の電子化にかかわる議論や実践は、反抗期の中学生みたいなものだった。純粋でナイーヴ。だがグーグル・ブック検索は違う。徹底的に違う。ここから異なるモードに移行したのだ。この切断線を、ぼくは「グーグル切断」(Googlian Cut) と名づけた。「デカルト切断」(Cartesian Cut) のもじりである。

米国においては、どうか。既存のセクターとの関係でいえば、総じて図書館からは歓迎され、出版業界は賛否二分といったところだろう。

図書館や一部の出版社にしてみれば、グーグルがその資金と技術でもって自社の刊行物を電子化してくれるのなら、こんなうまい話はない。シメタ!とばかり、飛びつく。ダボハゼ状態である。一方で、大手出版社やアメリカ大学出版部協会は、著作権を侵害し、既存出版社のビジネスモデルを破壊するものだとして、グーグル・ブック検索を目の敵にし、訴訟にもなっている。しかし、この期に及んで、けっきょく著作権しかよりどころがないこと自体が、既存の出版産業の立脚点がかかえる限界を露呈したものだといわねばなるまい。

出版産業は、書物を売って利益を得る。グーグルは、検索エンジンを利用するユーザーを標的とした広告で利益を得るのであり、そのためにネット上の検索資源自体を増やそうとする。両者の世界観が相当に異なっていたとしても、なんら不思議はない。グーグルから見れば、書籍は、質量ともにまとまって存在するもっとも潜在的可能性の高い検索資源だ。葱を背負った鴨がそば屋の店先で昼寝しているようなものである。

グーグルだけではない。MSもアマゾンもここに狙いを定めて、さまざまな手を打ってきている。デジタルメディア社会において、だれが「書籍」を領有するのか。どうやらガチンコ勝負のたたかいが始まってしまったようだ。