PFF(ぴあフィルム・フェスティバル)の特別企画でダグラス・サーク監督作品の特集をやっている。この企画はすばらしい。たまたまチケットを譲っていただくことになり、まとめて観ることができた。サーク作品を観るのは初めてだ。
サークはメロドラマの巨匠として知られている。メロドラマといっても、いわゆる昼メロ的なものに代表される通念──安手で、ありきたりで、お決まりのパターンをくりかえす想像力の欠如した映画──をイメージしていると、思いきり足許をすくわれる。サークのいうメロドラマは、音楽とドラマがたがいにわかちがたく結びついたものだからだ。
たしかに、ありがちな設定、ご都合主義的展開、定型化したハッピーエンドといった通念的メロドラマの主成分は、サーク作品にも共有されている。しかし、それでも、いや、だからこそ、サーク作品は独特の深みと味わいのある映像作品を構築しえている。凄味が感じられるのは、その点である。どんな場面でもけっして急ぐことなく、局面をひとつずつていねいに描いてゆく。映像のつらなりは、登場人物の心の微細なうごきを、そのひだの奧まで仔細かつ繊細にあらわす。おどろくばかりの豊かさである。
客席は満員だった。このところ日本でもカルト的人気が沸騰しているのだそうだ。『いつも明日がある』のエンドタイトルのあと、一部から拍手がおきた。むろんこれは傑作だ。そのお決まりのハッピーエンドがなんとも無情で残酷な幕切れに見えてしまう。だが、その余韻の醒めぬ間に拍手するというのが、どうにもぼくには理解しがたい。カルトはスノビズムと裏腹、ということなのだろうか。だとしたら、それこそメロドラマの素材にふさわしいといわねばなるまい。