映画『ウォー・ダンス──響け僕らの鼓動』

こちらの作品もやはりドキュメンタリー。『ヤング@ハート』()が高齢者を対象としていたのにたいして、こちらは子どもたちが主役である。舞台はアフリカ・ウガンダ北部の内戦地帯。内戦孤児など紛争の犠牲になった子どもたちが、音楽やダンスをとおしてアイデンティティの再構築を図る。

この作品で強調されるのは、「死」の影からの離脱である。孤児たちは、紛争によって肉親を失ったというだけではない。この内戦において、子どもはむしろ巨大な争点のひとつである。子どもをさらってむりやり兵士にしたてあげ最前線にたたせる事態が恒常化しているため、子どもたちはつねに存在論的な恐怖にさらされつづけている。難民キャンプにいる子どものなかには、実際に大人の殺害への加担を強要されたりした経験をもつ者さえいる。

ほとんど人間であることを剥奪されているような極限状況の凄惨さは、したたるほど濃厚な大自然の描写によっていっそう強調される(演出手法としては常套だが、かなりあざとい印象をうける)。その血塗られた「死」の影のただなかから、かれらを救いだしうる唯一の具体的手立て。それが音楽とダンスである、と描かれる。

アイデンティティを獲得するためには他者による承認が必要だ。子どもたちはそのために、首都──北部の紛争地域とは対照的に平和で近代的であり、落差が強調される──でおこなわれるウガンダ版ダンス甲子園(国家主催らしい)のような全国大会に挑戦することになる。その目標に向けて厳しいトレーニングが課され、そのなかで子どもたちの立場や事情がもたらすさまざまな差異が埋められてゆく。その過程は、音楽を媒介にすることで、かれらが否応なく投じられていた「死」の世界から「生」に向けての脱出行だといえる。そして最終的に、自信と誇りをとりもどすきっかけを得るまでに至る。

その過程で獲得されてゆく「生」は、木琴奏者として認められる少年を除けば、みずからが帰属する部族の一員という形でのアイデンティティ再構築によってもたらされる。内戦によって「死」に包摂されざるをえなかった子どもたちが、アイデンティティをとりもどす過程をとおして、けっきょくはナショナリズムの地平に回収されてゆく。製作者側の意図とは(おそらく)裏腹に、その過程はそれ自体、内戦のようなものとは異なる別の凄惨さを含んでいる。子どもたちもまた、かれら自身の「生」を奪ってきたはずの内戦当事者──政府や反政府勢力と同じ論理の枠組みに着地してゆくのだから。

その観点からすれば、音楽もダンスもむしろ動員のためのメディアとして描かれているといわねばなるまい。

わたしたちがナショナリズム的想像力からどれほど自由でないかを思い知らされると理解すべきなのか、それでも血が流されないだけまし、とうけとめるべきなのか、あるいはその両方なのか。