「格差」という嫌な言葉をめぐる昨今の言説で、もっともマズイとおもうのは、非正規雇用と正規雇用という二項対立の図式をみずからつくって、前者が後者を、あるいは後者が前者を叩くことだ。
最初のケースは「被害者」意識によって、あとのケースは現在の自己の立場の不安定さの裏返しによって駆動されているが、いずれも先行きにたいする不安と閉塞感を源泉としたものだ。それゆえに二項対立の一方を「他者」として表象し、「あいつらはうまいことやっているにちがいない」「あいつら自身の努力不足だ」として排除する意識が頭をもたげ、うごめくのだ。
しかし、こうやって働く者どうしが二つにわかれて叩きあったところで、いったい何になるというのだ?
非正規雇用者のおかれた立場が凄惨であるのは、まったくそのとおりだ。同時に看過してはならないのは、正規雇用者の大半もまたけっして「楽園」に住んでいるわけではないという現実だ。後者を引きずり降ろしたいというのは心情としてはわからなくもないが、結果として、産業革命以降の世界が少しずつ獲得してきた働く者の権利(それは現時点においてもまったく十分なものではない)をみずから放棄破壊することになるだろう。
働く者どうしがみずからを分断し、つぶしあいをしたところで、何の利得もない。けっきょくのところ、わたしたち自身がさらに徹底的にむしりとられるだけだ。
糾弾すべき相手を見誤ってはならない。これらの問題をつくりだし、わたしたちを不安と閉塞の奈落に突き落としたのは、グローバル資本主義と新自由主義の流れにのった1990年代以降の「改革」路線だろう。異議を申し立てるべき相手は、そこに何らかの利権を見出してせっせと推進した政財界であり、官僚組織であり、それを「改革」ともちあげて一緒に踊ったひとびとであるはずだ。