映画『ヤッターマン』

『ヤッターマン』(三池崇史監督)を観た。

アニメの名作の実写映画化というと、設定だけ借りて、実際にはまったく別の物語をつくるケースが多い。しかも得てしてそれで失敗する。この映画はその正反対。1970年代のアニメの設定とパターンをまるっきりそのまんま忠実に実写にしている。あまりに忠実なために、その過剰さがかえって異彩を放つ。この姿勢が、本作品をなんとも無茶で、ユニークなものに仕立てあげている。

登場人物やメカ、変身の場面、決まり文句、物語のパターンといったアイテムはもちろん、それぞれのパターン化した場面の構図やカット割りまで、ほぼ70年代のオリジナル・ヤッターマンそのままだ。

この姿勢は徹底されており、物語も基本的にアニメ2.5本分で出来ている。すなわち、いきなり山場の戦闘シーンから始まり、ドロンボーたちの敗走とお仕置きで、まず一区切り、そのあと、かれらが仕切り直して新メカをこしらえ、また戦闘シーン→敗走→お仕置き、というパターンを二度くりかえす。毎週放送というオリジナルのリズムを踏襲しているわけで、それはご丁寧にも最後の最後まで貫かれる。

こうした忠実さの過剰は、『ヤッターマン』の本質が、主題やプロットというよりも、お決まりのパターンの無限の反復にあるということを、それこそ過剰なまでに強調する。それが、本作品がオリジナルにたいして身をもって示す批評であり、リスペクトであろう。

してみると、三池監督が好んで描き、この作品にも充満している暴力やエロスの過剰さは、無声映画のスラップスティック・コメディのもつ過剰性に直接つながっているのかもしれない。

オリジナル・アニメと同様、ヤッターマンの二人よりもドロンボー一味のほうが強く印象に残る。生瀬勝久のボヤッキーと、ケンドーコバヤシのトンズラー、どちらもすばらしい。話題になった深田恭子のドロンジョも、いい感じだ。ただし、大人っぽい色気というよりも、とりわけ声や仕草において、ややロリロリしたかわいらしさのほうが滲みでている。