映画『ピリペンコさんの手づくり潜水艦』

二日間の卒論ゼミ中間発表会を終え、翌日は特別入試の面接だった。終了後イメージフォーラムまで『ピリペンコさんの手づくり潜水艦』を観にいってきた。

内容はまさに題名どおり。ピリペンコさんとは、ウクライナの草原の村に住むおじさん。62歳。年金暮らし。近所の池で魚の養殖(?)もしている。ドキュメンタリーだから実在の人物である。ナレーションも当人がおこなっている。

かれの趣味は潜水艦づくりだ。20年前に雑誌の記事をみて思い立ち、以来その雑誌記事だけを頼りに、自宅の片隅で自作してきた。その名もイルカ号という。乳母車にお椀で蓋をしたような恰好をしたイルカ号、黄緑色の船体に丸い窓が穿たれ、モーター駆動のちっぽけなスクリューがついている。潜水艦なのに四輪車でもあるのは、古ぼけた自動車に牽かれて移動するためだ。

このイルカ号で海に潜る。それがピリペンコさんの目標だ。しかしかれの住む村は見渡すばかりの草原の只中にある。かれは半ば棄てられたトラックをコルホーズから強引に借りだし、潜水艦を積み込んで、400km離れた黒海まで運ぼうと計画する。……

自作するのが潜水艦というのが、ちょっとすごい。ロケットボーイズみたいな、どこか自己撞着的な意識など微塵も認められない。舞台も西欧ではなくウクライナという「辺境」。そのうえこのピリペンコじいさん、べつに偉人でも人格者でも、絵に描いたような変人でもない。じぶんの古びたコンプレッサーに高い値段がつくとわかったときのニヤケぐあいは、かれが世界中を満たしているごくごく凡庸な俗物であることを示している。それゆえ健全である。

脱力系、ゆるさ、あるいは夢を追い続けて実現することの大切さ。この作品はたぶん、そういった陳腐な主題でもって語られることが多いだろう。じっさい配給会社はその方向でマーケティングをかけているようだ。

そういった見方は、しかしかなり暢気なものだと心得たほうがいい。なぜならこの作品は、ドキュメンタリーと称してはいるものの、半ば劇映画と理解すべきだからだ。

もちろん登場する人物は実在するだろうし、お話自体も実話なのだろう。その意味では、なるほどドキュだといえばドキュである。米国製のドキュにありがちなこれみよがしにあざとい映像もない。けれども同時に、物語としてかなり強力につくり込まれていることも見逃してはならない。

どの場面でもよいが、たとえば会話の場面に注意を払おう。一連のシークエンスをいくつかにカットを割って構成している。話者が変わるのにあわせて切り返したり、必要におうじて引きのショットが入ったり、特定のものに注目させるべくクローズアップが入ったり、あるいは最後のシークエンスでみせるように、わざと特定のものをフレーム内からはずしてみせたり。

そこまで計算されたショットを、一般的な意味でいうドキュメンタリーで撮影することは不可能である。見たところ複数台のカメラを同時にまわして撮影しているというわけではなさそうだし、むしろ事前に周到に用意された脚本にしたがってカットごとに撮影したと考えたほうが妥当とおもわれる箇所が頻出する。

それでもこの作品がたのしいのは、画面に映しだされるディテールに力があるからだ。

ピリペンコさんの指のあいだには黒い油が染みついている。なかには爪のほとんどなくなった指もある。戸外で食事をするが、調理場といわずテーブルといわず蠅だらけ。家のなかにも村のあちこちにも、アヒルや猫や犬がのべつ闊歩する。イルカ号に乗り組むためのハッチがスライド式であったり、潜航時に笑ってしまうくらいボタボタと浸水し、ピリペンコさんの眼鏡が曇り、額から浸水に負けないくらい汗が流れている。そんなひとつひとつの表情が、この作品を映画にしている。