映画『スタートレック』

映画『スタートレック』(J.J.エイブラムス監督)を観た。カーク船長が船長としてUSSエンタープライズ号を指揮するようになるまでを描くSF大作である。VFXもアクションシーンも、そこはハリウッド。よくできている。

劈頭、カークの父が殉職するのと引き替えに、カークが出生する場面から始まる。このエピソードが明示するように、これは『スタートレック』の起源の物語だ。

けれども、これがあの『スタートレック』サーガの起源なのだとすれば、少々さみしいといわねばなるまい。観る者をしてわくわくさせてくれる何か──おそらくは「希望」のようなもの──は、全篇とおしてどこにも見あたらない。

それにもまして救いがたいのは、肝心のカークという人物が、せいぜいランボー程度にしか見えないことである。

本作品のカークのふるまいは、隅から隅まで、ただ野心と暴力とによって満たされている。「敵」はどこまでも敵でしかなく、連邦は正義であり、たたかいには微塵も疑問をいだかない。かれの頭のなかにあるのは、船を指揮する立場を手に入れることだけ。クルーの信頼を得るのもその目的を実現するためだ。目的のためには、嘘もつけば、他人の精神を素手で引っ掻きまわすことすら厭わない。

それでも、ともかく勇猛果敢にたたかって、戦闘で生き残ることができれば、クルーの信頼はそれなりに得られるかもしれない。だが、そんな名船長は、しょせんは並の名船長にすぎない。『スタートレック』におけるカークの偉大さとは、凡百の軍人にはありえない卓越した視野の広さと思慮の深さ、つまりひと言でいえば「賢さ」をそなえていたことを源泉としていたのではなかったか。

本作品のカークには、そうした賢さの片鱗はおろか、萌芽の一片さえも認められない。それがカークを演じたクリス・パインの力量不足に起因するのは明らかだが、それだけに帰するのは不公平というものだ。むしろ根本的な問題は、製作にたずさわった者たちの世界にたいする認識、すなわちその思想にあるとみられなければならないだろう。

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