BLOGOSというサイトから連絡が来た。運営しているのは「あの」(と、つい枕詞をつけたくなってしまう)ライブドアである。ぼくのこの「散歩の思考」の記事を転載させてほしいという。こんな辺境ブログの何がいいのかはわからないが、興味をもってもらえたのはありがたいことである。といっても、何もかもが転載されるのではなく(だったら意味ないし)、世の中に意見しているような、古いジャーナリズム論的な言い方でいえば「ニュース価値」のありそうな、論説ふうの大文字的内容の投稿のみを選択的に載せたいのだそうだ。
試しにそのBLOGOSをのぞいてみた。政治家の「公式ブログ」というのがいくつも登録されている。いまやテレビ芸能人はいうにおよばず、政治家にとっても生き延びるためにはブログは必須アイテム、できればツイッターもやっておくのが望ましいと信じられているらしい。人気商売も大変である。
いい機会なので、政治家たちのブログがどんなことになっているのか、拝見した。個々の記事の中身にかんして特段の意見はない。ここでは別のことを書く。
「公式ブログ」はなぜことさらに「公式」を謳わなければならないのだろうか。
「公式」と「ブログ」の二つに分けて検討してみよう。まずは「公式」から。
当然考えられるのが、みずからを「公式」とラベリングすることで、非公式の有象無象とは違うぞとアピールしている、ということだろう。他と区別することで自己の唯一性を明示し、それによって正統性を強調する。ファンの勝手サイトと区別する芸能人の「公式ブログ」や、「宮内庁御用達」などといった権威づけの看板と同じ理屈だ。もちろんその唯一性や正統性を裏がえせば、それを担保にした自己宣伝へと結びつく。
正統性の保証という「公式」の性質には、さらにもうひとつの側面がある。それは「公式」が、ある枠組みの内側の論理にのみ照らして構成される言明、ひらたくいえば「建前」のみしか語ることが許されない場でもある、ということだ。そのことを理解するには、たとえば「公式見解」という定型句の使われ方を想起すればよいだろう。
一方「ブログ」のほうはどうか。
この媒体の基本は、運営者の言明が逐次ネット上に公開されてゆくことにある。ここでのポイントは「直接性」だ。新聞にせよテレビにせよ、マスメディアは政治家の代弁者ではないから、かれらの意図や期待どおりに伝えてくれるわけではない。ブログならばそうした他者が介在しないのだから、当人「自身」によって「当人の言葉」で「直接」に広く有権者に語りかける、という様相の演出を期待できる。いってみれば、マスメディアを中抜きして、みずからマスメディアとなるということだ。しかも既存のマスメディアには困難な双方向性も一定程度実現できる。そして重要なのが、当人による「直接性」を担保として、その言明に「正統性」の保証を与えることができる点である。
ちなみに、このように直接性を正統性にするすると横滑りさせる言説パターンを、ぼくは「直接性の神話」とよんでいる。この20年ほどのパソコンやネット文化論でさんざん使い回されてきたものだが、その時代の発明品というわけではない。それ以前から、新しいメディア技術やサービスが登場したときにつねに反復されてきたものである。
さて、政治家の「公式ブログ」だ。「ブログ」に依存した直接性を正統性へ横滑りさせ、そこに存在価値をおく以上、ここで「語りかけ」られる言葉とは、よそ行きの「建前」なのではなく、政治家本人の偽らざる「本音」であることが求められることになる。たぶん政治家本人もそのつもりで熱心に執筆しているのかもしれない(たとえ代筆者がいたとしても)。
しかし政治家たちのそんな涙ぐましい努力にもかかわらず、もちろん「公式ブログ」に「本音」が記されているとは誰も信じないだろうし、現にありえないだろう。なぜならそこはかれらにとって「公式」の場なのだから。
「本音」への期待と「公式」の抑圧。「公式ブログ」とは、その両者のせめぎあう場所だ。そのなかでは、「公式ブログ」で「本音」を強調すればするほど、それが自己宣伝であるように見えてしまうことになるだろう。政治家たちの思惑とは裏腹に。
ぼくの知っている範囲で、政治家の「本音」を垣間みることのできた例は、たぶんハマコー氏のツイッターくらいである。それも、かれ自身ツイッターが何なのかをよく理解していなさそうだった、ごく初期のころだ。「本音」というものがもしあるとすれば、それはたいていのばあい、あんなふうな場において、それと意図されることなく事故のように立ちあらわれてしまう何かなのだろう。
「公式ブログ」──べつに「公式ツイッター」でも何でもいいのだが──という場には、こんにちの政治家が身を置かざるをえない矛盾ないし齟齬が、はからずも露呈されている。
いずれにせよ政治家たちのデジタルメディア戦略は、世間でいわれているのとは少し違う方向で、今後ますますややこしくなろう。ブログやツイッターをやらなければ「時代遅れ」の烙印を押されるのだし、一度参入してしまったら最後とにかくブログを運営し続けなければならないからだ。止めてしまえば「政治家」として世の中に認知してもらえない。事実として認知してもらえないかどうかが問題なのではなく、そうなるかもという恐怖が巣くうから、止めるに止められないのだ。
しかもそこでは、一方では「本音」の吐露を強く期待され、みずからも手を尽くしてそれを演出しながら、他方では「本音」を吐くなどという無防備なふるまいはけっして許されない。そのような引き裂かれたジレンマを、政治家たちは生きなければならないのだ。
それが「公式ブログをもつ」という形式の発信してしまうメタメッセージであるらしい。
参考:BLOGOS