選挙で萌えるマスメディア

千葉県議会の補欠選挙(市川市選挙)が公示された。今回は出張と重なるので、生まれて初めて不在者投票するつもりでいたら、無投票になったという。愉しみにしていたのに。

選挙で愉しそうといえば、このところのマスメディアである。

民主党の党首選挙に小沢一郎が出馬すると決まって以来、テレビの(新聞もだ)はしゃぎぶりようといったらない。連日、小沢が何をしたとか、菅が何をしゃべったとか、票読みはどっちが優勢だとか、どちらが党首にふさわしいかとか、話題に事欠かない。双方を支持する女性議員をならべて両者を競わせてみたりもする。新聞は新聞で、論説委員というひとたちが登場しては、したり顔で戦況を解説している。

テレビのなかのひとたちは、みな愉しそうだ。いきいきとしている。選挙ならまかしとけ!とばかりに張りきっているのだろう。

でもよく考えてみれば、「日本の将来が決まる」などと盛りあがっているのは、かれらと民主党関係者だけではないのか。今回は所詮、民主党内の儀式に過ぎない。ぼくたちが直接選択する選挙ではないのである。そんなこと、有権者なら誰でも知っているだろうに。視聴者のほうは、そうしたテレビのはしゃぎぶりに適度に付きあい愉しみつつ、でももう少し冷ややかなのではないだろうか。

それでも、テレビがつぎつぎと民主党首選がらみの映像を垂れ流すのは、それがかれらの体質によく合致しているからだ。

その体質には二面ある。ひとつは、テレビがなんでも娯楽にして消費の対象にしてしまうという性質である(ちなみに新聞は、世を憂えるしたり顔というポーズをとるのが得意)。もうひとつが、テレビのような20世紀日本型マスメディアは国民国家と不可分の形で存立しているらしい、ということである。

だとすれば、かれらが生き残る道は、やみくもにインターネット的なものにすり寄るのではなく、グローバル資本主義の時代において国民国家の可能性をマスメディアの立場から考えることではあるまいか。