さる雑誌に寄稿した原稿のゲラが届いた。ぼくが提出した原稿の漢字/かな表記の使い分けが、いつのまにか変更されている。「いまさら電子書籍が」と書いたはずなのに「今更電子書籍が」となっていたりする。困ったことである。漢字6文字が連続すると、そういう名詞みたいに見えてしまう。編集部に訊くと、雑誌全体の表記統一のため、一律に朝日新聞の用字用語に統一させてもらいました、という。
さいわい今回は、こちらの考えを編集長に話したところ、すぐに理解を示してくださって、もとの原稿にあわせて再度修正してもらえることになった。だが、じつは原稿の表記を勝手に統一されしまうようなことは今回が初めてではない。これまでも幾度かあった。ぼくの経験上は、今回と同様、朝日新聞の用字用語に機械的に統一する、というケースが多かった。
個人的には、あまり良いことだとはおもわない。
表記の揺れや不統一は見苦しいという意見があるのはわかる。日本語の文章は漢字、ひらがな、カタカナなどの文字種が混在するうえ、その使い分けの仕方が統一されているわけではない。とくにワープロ普及以降、むやみやたらと難しい漢字がつかわれているような傾向も見られるかもしれない。だから、とくに新聞のように、大勢の記者たちが書いた原稿をひとつの紙面に集積させる性質の媒体であるのなら(日本の新聞記事はいまでもまだ無署名が多い)、用字用語の統一に一定の必要性は認められるかもしれない。
けれども雑誌や編著ものの書籍といった規模のもので、そこまでして表記を機械的に統一する必要がどこまであるだろう。一行あたりの字数の少ない新聞とは組版の考え方からして違う。そしてなにより、どこにどんな漢字をつかうか、あるいはひらがなにするかという表記の仕方も、表現の一部と見なすべきではないだろうか。
じっさい、これまで新聞に寄稿した経験でいえば、ぼくのような外部の寄稿者にたいしてまで、社内の用字用語の原則を機械的に当てはめるようなケースは、ほとんどなかった。「ほとんど」というのは、一社だけ例外があったからだ。それがその会社の方針なのか担当者の個人的考えなのかは知らないが、いずれにせよ言葉に敏感とはいいにくい。
表記の仕方は表現と不可分だ。文学者であれば、その言葉を漢字にするかひらかなを選ぶかは、文体にかかわる問題だろう。文学に限った話ではない。仮にも署名で原稿を提出する以上、誰であれ、そのくらいのことは考慮して執筆するべきだとおもう。
たとえば、「ぼく」は漢字では書きたくない。「僕」とすれば村上春樹みたいになってしまうし、「ボク」とすれば団塊世代みたいだ。「じじつ」「じっさい」「けっきょく」のように、副詞も多くのばあいひらがな。漢字にすると必要以上に重くなるような気がするからだ。動詞が複合するばあいは、原則として後ろの動詞をひらがなにひらく。「動きはじめる」というように。
こうしたぼくの表記法とて、機械的にそうしているのではない。その文章の前後の関係や呼吸、それに紙面の視覚的なようすを考えあわせて決めている。ひらがなの文字列のなかに文脈上重要な言葉が漢字としてまじることで、その部分が浮きあがってくるような文章にしたいとおもっている。もちろん、それはあくまで目標なのであって、すでに実現できているとはいわないが。
かな文字やローマ字表記を唱えた故梅棹忠夫さんは、文章表現から表記の仕方にいたるまで、若いころに今西錦司さんから徹底的に叩きこまれたというようなことを、たしかどこかで書かれていた。表記の仕方は大切であり、ゆえに基本的には著者の裁量に属する事柄なのだとおもう。
じつはぼくは大学生のころまで、書ける漢字は全部漢字で書くものだと思い込んでいた。小学校以来、学校でそう教わってきたからだ。ぼくが日本語で文章を書くときに漢字とかなの使い分けを強く意識しはじめたきっかけは、駆けだし編集者時代に先輩たちから教えられたことだった。
編集にたずさわるひとは、内容のみならず、表現としての表記についても、もう少し神経をつかってもいいのではないだろうか。そして同時に、日本語の作文教育において、漢字/かなの表記を意識することについてもう少し教えてもいいのではないだろうか。種々の文字を複合させることで表される日本語をもちいて、せっかく文章を書こうとしているのだから。