流言や風評とは何か

さるところでインタビューをうけた。以下はそのときしゃべったことのメモ。

流言や風評はなぜ生じるか。

流言や風評とは、ひと言でいえば、事実的な情報の不足もしくは欠損を、ひとびとが想像によって補おうとすることによって生じる集合的な現象である。

逆にいえば、事実にもとづく情報が十分に与えられていると感じられている状態においては、流言や風評が繁茂するような事態は生じにくい。

流言や風評とは「状況理解」のひとつのあり方だといえる。したがって、流言や風評について、それが事実とどれだけ違うかという観点だけで論じることは、あまり実りがあるようにはおもわれない。

とはいえ、事実というより想像に過度に依存した「状況理解」は、実際の状況からかけ離れたものになりがちであり、それがさまざまな問題を引きおこす要因となる。

1923年の関東大震災では、「朝鮮人が暴徒化した」というデマが流れたことがよく知られている。これは、朝鮮半島にたいする植民地支配への暗黙的(もしくは積極的)加担という後ろ暗さに起因する、裏返しの恐怖だといえる。そしてその恐怖は「自警」という言説へと反転され、朝鮮人や中国人への暴行・殺害という極端な形で暴走してしまった。

今回の震災では、そのように極端な例は見られなかったようにおもう。だが、88年前と同様、ある時期までは、さまざまな流言や風評が流れた。基本的なメカニズムは同じである。

流言や風評が、えてして破滅的な内容になりがちなのは、それがそれまで無意識的であった「恐怖」の立ちあらわれる様相であるからだ。構造的に隠蔽されていたものや、うすうす感得しながら意識下に押し込めていたようなもの、それらが立ちあらわれて、情報の不足や欠損を埋めあわせようとして奔出する。

このように、流言や風評は、しばしば破滅的な言説や行為の増殖を招き、社会的秩序をいたずらに不安定化する。その意味では、たしかに憂慮すべきものではある。なるべくなら、そこに加担してしまわない冷静さを保ちたい。

けれどもその一方で、流言や風評は困ったものだ、そんなことを言うやつはダメだと、ただ切り捨ててしまうのもまた、必ずしも適切な態度とはいえない。理由を三点あげる。

第一に、よくわからないことについて、想像にまかせてものを語ってしまうこと自体はけっして特異なことではない。誰しも噂話をするように、それは、いたって人間的な行為のひとつである。流言や風評は、そのような日常的な行為から地続きのところに生起する。

第二に、だからこそ、知らず知らずのうちに、流言や風評の増殖に加担してしまうような可能性は、誰にでもある。事がおきている最中は、誰しも不安なものだ。不安こそ恐怖の培養土となり、そこに情報不足が重なれば、簡単に流言や風評に揺さぶられてしまう。ぼくもそうだし、あなたとて例外ではいられないだろう。

第三に、上に述べたように、流言や風評には、ひとびとが、状況を把握できないもどかしさのなかで、その空白を想像力でもって埋めあわせることで、無理やりにでも状況を理解しようとしているという性質をあわせもっている。

人間という生き物は、じぶんをとり巻く状況の「意味」が曖昧で空白な状態のまま、長く堪えられるようにはできていない。判断するための情報が足りなければ、想像によって強引にでも「意味」をつくりあげてしまう。そうでもしなければ、とうてい、やっていられないからだ。

いいかえれば、流言や風評には、十分な情勢判断のできない立場におかれたひとびとが、それでも状況把握を強行することによって自己を保とうとする「無意識的な防衛」という側面があるということだ。

流言や風評の繁茂という状況は、だから、わたしたちにとって、ひとつの警告でもある。それは、そこに必ず情報の不足や欠損という状態が存在することを示しているのだから。

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