「テクスト講読」という授業をやっている。文系の学部ならどこでもやっている文献講読の授業だ。主として3年生が受講する。今期は登録した学生全員が最後まで走りとおした。なかなかないことである。
じっさい、期末に提出してもらったふりかえりのレポートは、大半がとてもよく書けていた。この学期の勉強で発見したり学んだりしたことを、各自じぶんの言葉で綴っていた。読みごたえがあった。
講読といえば、一般的にはテクストに書かれている内容を教えることが主眼なのかもしれない。だが現状、英語文献をとりあげると、英文読解の授業になってしまう怖れがある。この授業のばあいは日本語文献をつかう。今年の前期のテクストは、石田英敬先生の『自分と未来のつくり方』(岩波ジュニア新書)をまるごとと、ぼくの『アトラクションの日常』(河出書房新社)の第2章「乗りこむ」。
内容に触れることはむろん大切だが、むしろ読み解きの仕方を養うことのほうに力点をおく。概念と論理によって組み立てられた文章をどう読み解くかという仕方を身につけてもらいたいのだ。レジメの切り方や口頭発表の仕方といったような具体的な方法も教える。
大学でやるべきことかどうかについては、いろいろな意見があるかもしれない。でも、これまでのぼくの数年間の経験からいえば、やらないよりは、やったほうがよいとおもう。
学生たちのなかには最初、日本語の読解? というような反応を示す子もいた。母語だし、すでにいろいろ本も読んできた。いまさら? ということらしい。受験国語の技法みたいなものと勘違いしている子もいた。
そういうかれらは、しかし授業が進むにつれて、じぶんが持っていると思っていた読解力が、そのじつどの程度のものだったかをだんだんと自覚していくようになる。そうなってくれれば、成長が期待できる。
というのも、読解力の低い状態を示す典型的な症状のひとつは、その自覚がないことだからだ。読解力は、そのひとの認識や思考の可能的な範囲を枠づける大きな要素である。読解力が低ければ低いほど、そういう状態におかれていること自体を認識しにくくなる。
かれらが一定の読解力をもっていると感じていたのは、日常語を日常の文脈で使用するという水準においての話である。人文社会科学系の、概念と論理で組み立てられたような文章には歯がたたない。日本語文献なので読むだけならいちおう読むことはできる。だがまったく頭に入っていかないのだ。
こういうとき、じぶんの読解力を棚にあげて、文章そのものが堅くてダメなのだと相手のせいにするケースもしばしば見られる。言うのはかまわないが、それではいつまでたっても、この手の文章を読む力はつかない。むろん書くことなどとうていおぼつかない。
じぶんの読解力の水準について知らされることになった学生たちがつぎに気づくのは、これまで文章を読んでいるつもりでいながら、じつは文章をあまりよく読んでいなかったという事実である。
文章そのものよりも、むしろ行間やら「空気」やらを読んでいる。そう、いいかえてもよい。
かれらのいう「読解」は、じつは流し読みに近いものである。かれらのいう「理解」は、その時点でもちあわせている、じぶんの枠組みを再生産したにすぎない。そういうことに気づく。
これにたいして、ぼくの授業が実践するのは、じつに単純なことだ。
行間には文字はない。読むべきものは、まず文字であり、言葉である。そこに何がどのように書いてあるかを、とにかくひたすら読む。そうした当たり前のことを、徹底してやってみる。
こういう態度を、テクストを物質的にとらえていくアプローチとして表現できるかもしれない(書物の物質性と混同されることのないよう)。こうした読み方を身につけつつ、テクストを精読するという経験を重ねていってくれると、うれしい。
もっとも、いつもそんなふうに読んでいたら、くたびれてしまうのだけど。